アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

2014-01-01から1年間の記事一覧

厳密な普遍性を含む判断を下す人間の能力は特別な源泉の存在を示唆し、それは《アプリオリな認識の能力》と呼ばれる

1. アプリオリな認識 ↔ 経験的な認識(アポステリオリな源泉による)2. アプリオリな認識 > 純粋な認識(経験的なものがまったく入っていないアプリオリな認識) 例:「あらゆる変化には原因がある」=アプリオリな命題だが純粋ではない。変化という概念…

「アプリオリな総合判断」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言 

・・・・ それゆえ、 重さという述語と物体という概念との総合の可能性が基づいている元は、 経験なのである。 ☆ところが、 アプリオリな総合判断の場合は、 このようなよりどころがまったく見あたらないのである。私がAという概念を超え出なければ、別のB…

「経験判断は、 それ自体全て総合的である。」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言 

・・・ 理性が、 与えられた概念に全く異質な、 しかもアプリオリな概念をつけ加えると、 理性は自分でも気がつかずに、 まったく別種の主張を横領する。ところが、 人は理性がどうしてそういうことにいたるか知らないし、 そのような問いに思いいたることさ…

「知性は一体どのようにこれらすべてのアプリオリな認識に達することができたのか、 またそれらはどれほどの範囲と妥当性と価値をもつのであろうか」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言

III 哲学はすべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学問を必要とする ・・・ 人はむしろその前に、 次のような問いを投げかけられていたということである。 すなわち、 知性は一体どのようにこれらすべてのアプリオリな認識に達することがで…

「実体という概念は、 自分たちのアプリオリな認識能力の中に座を占める」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言

序言 II われわれはある種のアプリオリな認識をもっており、常識でさえけっしてそれを欠いていないところで、 このような必然的な、 もっとも厳密な意味での普遍的な判断、 つまりはアプリオリで純粋な判断が人間の認識の中に実際に存在するということを示す…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#4)を読む独逸語の勉強#1

Frage: (質問)Wir müssen den bestimmten Glauben haben, daß die Mühe, die wir aufwenden, sich auch lohnen wird. 私たちは、 苦労すれば、それはまた報われるだろうというある種の信念をもっているはずです。Ist es überhaupt möglich, das Geistesleb…

「われわれが何によって純粋認識を経験的認識からきっぱり区別できるのか」 イマヌエル・カント”純粋理性批判”序言

序言 I 純粋な認識と経験的認識の区別について以下ではアプリオリな認識とは、 そのときどきの経験から独立した認識ではなく、 一切の経験からまったく独立に成立する認識を意味するということにする。このような認識には経験的認識や、 アポステリオリに、 …

決闘

ポットのお湯でインスタント珈琲を淹れていたら、舞台上の大時代的俳優のような大げさな身振りで何かを口走る安藤君を思い出し、それが”ゴーガンダンテス”のキャラクターと重なった。少し滑稽で愛すべき伊達男達。やはり死すべき運命だったのか。ゴーガンダ…

「純粋理性自身のこの避けることのできない課題とは、 藭、 自由そして不死である」 イマヌエル・カント「純粋理性批判 」序文より

・・・それよりももっと述べたいのは次のことである。 ☆すなわち、 ある種の認識はさらに、 一切の可能的経験の領域を離れて、 経験の中のどこにも対応する対象が与えられえないような概念によって、 われわれの判断の範囲を、 経験の一切の限界のかなたにま…

「観念論は、・・・哲学と一般的な人間理性のスキャンダルであることに変わりはない」 カント「純粋理性批判」第二版序文より

本来の増補 ー それも単に証明法という点においてだが ー を挙げるとすれば、 それは心理学的観念論に対する新たな論駁によっておこなったものと、 [上巻304頁で]、 外的直観の客観的実在性に関する厳密な(思うにまた、唯一可能な)証明によっておこなっ…

「思弁的理性は、 真の構造を含んでおり、 そこにおいてはすべてが器官である。」  カント「純粋理性批判」第二版序文より

独断論とは、 理性自身の能力を前もって批判することのない純粋理性の独断的な手続きのことである。 ☆・・・・もう一つには、 事柄の性質、 すなわち純粋な思弁的理性の本性に帰せられる。思弁的理性は、 真の構造を含んでおり、 そこにおいてはすべてが器官…

「批判の効果」  イマヌエル・カント「純粋理性批判 上」第二版の序文より

しかし今や、 批判によって、 唯物論、 運命論、 無神論、 自由思想的不信仰論、 狂信、 迷信といった、 一般に有害となりうるものや、 果ては観念論や懐疑論という、 どちらかというと学派にとって危険で、 一般人には浸透しにくいものさえも、 根絶されう…

「純粋な思弁的理性の固有性・アプリオリな認識 + 認識の原理に関する有機体的統一性・完全性 = 根本学・形而上学としての”批判”」  カント「純粋理性批判」第二版序文より

ところで、 この純粋な思弁的理性の批判という仕事の核心だが、 それは、 今述べてきた、 形而上学のこれまでのやりかたを変革する試みにある。そしてその試みは、 幾何学者と自然科学者の前例にならって、 形而上学の全面的な革命にとりかかることによるも…

狐霊十三丸の話

Q. ベートーベンのおじさんに会ったときのことを教えてください。 A. ベートーベンのおじさんにお会いしたのは、ハンスシュタイン君(注:ドイツの天使)とお友だちになったころだったような気がします。カントのおじさんとお話ししているときでした。カント…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#3)を読む独逸語の勉強#3

Und ich glaube allerdings, daß noch sehr vieles überwunden werden muß, bis in breiten Kreisen für die Geisteswissenschaft so etwas eintritt, wie es damals durch die kopernikanische Weltanschauung eingetreten ist gegenüber allen früheren Vo…

魔法の夢

周りにたくさんの人がいる。昼間である。人々の衣服は白っぽく、地面が黒い。私は右の掌を上に向けて眺めている。すると、指先から白っぽい煙のようなものが、渦を巻きながら現れた。その尖端が虹色の炎に変わった。そしてその炎の上に、白っぽい分子模型が…

カント「純粋理性批判」第二版序文より「道徳について」

ところで、 次のように仮定してみよう。 すなわち、 道徳は必然的にわれわれの意思の特性としての自由(もっとも厳密な意味での)を前提とする、 と。というのは、 道徳はわれわれの理性の中にある実践的で根源的な原則を、 自由のアプリオリなデータとして…

「時間と空間は感性的直観の形式にすぎず、 したがって現象としての物が実際に存在するための条件にすぎない」カント

時間と空間は感性的直観の形式にすぎず、 したがって現象としての物が実際に存在するための条件にすぎない。われわれは、 対応する直観が与えられうるかぎりでしか、 知性概念をもちあわせていない。したがって、 それを超えて物を認識するどのようなエレメ…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#3)を読む独逸語の勉強#2

Ich bin davon ausgegangen, daß das erlebende Bewußtsein erst da ist. 私は、まず、 私が述べたように経験できる意識の存在を前提にしているのです。Und so wie derjenige, der nicht eine Raumesanschauung hat, vom Pythagoreischen Lehrsatz nicht red…

私の意識の感覚領野においては、 いかなる対象も同時に物理的でありかつ心理的である。(マッハ)

・・・ 感覚する主体にとっては、 光の感覚は初めから一定の空間感覚と結びついているのであるから、 そもそもそうい問題(注:網膜上の倒立像がなぜ正立して見えるのか)は存在しない。視感覚および蝕感覚はさまざまな空間感覚と結びついている、 すなわち…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#3)を読む独逸語の勉強#1

Frage: (質問)Wenn Dr. Steiner mir nur einen Punkt der Geisteswissenschaft so beweist, wie die Lehre des Pythagoras bewiesen werden kann, dann folge ich ihm gerne, dann ist es Wissenschaft. もしシュタイナー博士が霊学の一部ででも用いてピタ…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#2)を読む独逸語の勉強#25

Ich bitte, meine Worte nicht so aufzufassen, als hätte ich dem, was der verehrte Herr Vorredner gesagt hat, ausweichen wollen. どうか、 私の述べたことが、 敬愛する先ほどの方のご発言をはぐらかそうとしたものではないことを、 ご理解ください。N…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#2)を読む独逸語の勉強#24

Habe ich Ihnen heute einzigen Indischen Ausdruck gebraucht? 今日、私は、ひとつでもインドに由来する表現を用いたでしょうか?Und wenn irgend etwas manchmal dadurch bezeichnet wird, daß man irgendeinen alten Ausdruck gebraucht, so ist das eben…

大田洋子「屍の街」

河原の人たちの軽傷者は、 たれもかれも河へ行って洗い物をしはじめた。 河原には家庭生活の単位のようなものが形づくられて、 どん底という思いではなく、 簡易生活がごく自然に営まれているのである。 けれども、 一刻も早くここを退きたいと思った。伝染…

青い光

「私は蚊帳のなかでぐっすりねむっていた。八時十分だったとも云われ、八時三十分だったともいうけれど、そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。」 アインシュタインによれば 質量の無い者は光速で走るという ただ一つ…

思考のうちにのみ客観と主観の真の一致があって、 わたしは思考だといえる。 ー ヘーゲルによるアリストテレス”形而上学”講義

アリストテレスが対象を思考し、 対象が思想として存在するにいたるとき、 対象は真の存在となる。 それが対象の本質です。といっても、 自然の対象がそれ自体、 思考として存在するというのではない。対象はわたしによって主観的に思考され、 そして、 わた…

思想上の記号・仮想上の問題・本能的な考え方でしかない「自我、精神、物体、物質」はすべて”感覚複合体”に呑み込まれる。「感覚の分析」マッハ

物体が感覚を産出するのではなく、 要素複合体(感覚複合体)が物体を形作るのである。 ☆物理学者にとっては物体が、 持続的なもの、 現実的なものであるように見え、 これにひきかえ、 「要素」はこの物体の流動的なはかない仮象であるように見えるので、 …

しからば若し総ての[個別的なる]ものの上に或る一つの[普遍的なる]ものがないとしたならば、 知識は如何にしてあり得るであろうか・・・。 アリストテレス「形而上学」

なほ若し質量に何等かの賓辞的規定を加へた場合たる具體的個體を離れて何ものかが確かにあるとし、 事實それがある場合、 あらゆる事物にその事物を離れて何ものかがあるべきか、 或は或る事物にはそのものを離れてそれがあり他の事物にはそのものを離れてそ…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#2)を読む独逸語の勉強#23

Gewiß, jeder kann das nachprüfen. 勿論、だれにでも、そのことを確認することは可能なのです。Und ich habe nie etwas anderes behauptet, der da will, geradeso die geisteswissenschaftliche Methode kennenlernen kann, wie er die Methoden der Chemi…

「永遠の天界・思考の神性について」ヘーゲルによるアリストテレス”形而上学”講義

しかし、 本当の原理は「思考」にある。 「思考は思考によってのみ動かされる」のだから。思考が対象をとるので、 思考こそがものを動かす不動の存在なのです。と言っても、 思考の内容は思考にほかならず、 思考の産物にほかならず、 かくて、 不動の思考は…