アリストテレスが対象を思考し、
対象が思想として存在するにいたるとき、
対象は真の存在となる。
それが対象の本質です。
といっても、
自然の対象がそれ自体、
思考として存在するというのではない。
対象はわたしによって主観的に思考され、
そして、
わたしの思考したことがものごとの概念でもあり、
実体でもあります。
自然のうちには概念が自由な思考として存在することはなく、
概念が肉となり血となっている。
しかし、
自然には魂があって、
それが自然の概念です。
アリストテレスは、
物が全体としてどうあるかを認識するので、
それがものの本質(ウシア)です。
概念は自然のなかで独立に存在するのではなく、
外面的な存在をまとって奇型を呈しているのです。
☆
常識的な真理の定義は、
「頭に思い浮かべたものと対象との一致が真理である」
というものです。
しかし、
頭に思い浮かべたものは思い浮かべたものにすぎず、
わたしがその内容と一致することはけっしてありません。
家や柱を思い浮かべたるとき、
わたしは家や柱ではなく、
わたしと家のイメージとはべつのものです。
思考のうちにのみ客観と主観の真の一致があって、
わたしは思考だといえる。
だから、
アリストテレスの立場は最高のものだといえるので、
これ以上に深い認識はありません。
「思考が合成体かどうかという疑問が残っている。
全体の部分間で変化が生じることもあるのだから。
だが、
善(目的)はどの部分かに存在するのではなく、
全体とは区別されつつ、
全体のなかで最高の善をなしている。
だから、
思考の思考は永遠に宇宙の最善をなすのである。」
ともあれ、
アリストテレスの哲学的な理念は最高にして、
もっとも自由なものです。
この理念は自然(天界)と思考する理性の両方に見いだされるもので、
ここでアリストテレスは方向を転じて、
目に見える藭、
つまり、
天界の考察へと向かいます。
生きた藭は宇宙であり、
宇宙のなかで藭は生きた藭としてすがたをあらわす。
藭はここでは運動するものとして具体的にすがたをあらわす。