アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧

驟雨

夏の雲の形をした激しい悲哀が 世界を包んだ すべて形無きものは虚しい あなたの悲しみには意味がある それは死せる都市に繁茂する 植物たちのように あなたの地下に埋もれた 祈りと欲望を 見えないものにする *夜は その白い顔を 美しく隠す かえした掌で…

「人智学、その本質および哲学的根拠について」 ベルン 1920年(大正9年)7月8日;独逸語の勉強 #2

Darf man denn nicht sagen, meine sehr verehrten Anwesenden, わが敬愛するご臨席のみなさん、 こう言ってはいけないでしょうか?daß etwa seit drei bis vier Jahr hunderten durch dasjenige, was wissenschaftlich orientierte Weltanschauung genant w…

「人智学、その本質および哲学的根拠について」 ベルン 1920年(大正9年)7月8日;独逸語の勉強 #1

ANTHROPOSOPHY, IHRE WESEN UND IHRE PHIROSOPHISCHEN GRUNDLAGENBern, 8, Juli 1920「人智学、その本質および哲学的根拠について」 ベルン、 1920年(大正9年)7月8日Meine sehr verehrten Anwesenden ! ご臨席の敬愛する皆様!Über Wesen und Aufgabe der …

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#4)を読む独逸語の勉強#3

Es ist zu begreifen, daß man, wenn nur die einzelnen Phänomene anschaut, auf dem Standpunkt stehen kann, auf dem Haller gestanden hat, als er sagte: Ins Innere der Natur dringt kein erschaffner Geist, Glückselig, wem sie nur die äußre Scha…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#4)を読む独逸語の勉強#2

Wenn jemand einen einzelnen Buchstaben ansieht, so kann er sagen: Dieser einzelne Buchstabe weist auf nichts anderes hin als auf das, was seine Form ist, und diese seine Form kann ich nicht auf etwas anderes beziehen; sie sagt mir nichts a…

「形而上学はわれわれのアプリオリな認識を拡張しようとしているのである」 カント

V 理性のすべての理論的な学問にはアプリオリな総合判断が原理として含まれている1.数学的判断はすべて総合的である。1−a. 例(純粋数学):7+5=12. 人は二つの概念(7および5)のうちのどちらかに対応する直観をたよりに、 これらの概念を超え出…

夜は骸骨の顔 (改)

精神病院の秋は美しい ことに満月の夜は 誤解したりされたり悲しいが仕方が無い。 毒杯でも飲み干さなければ前に進めない。 そうして何かが死んで行く。 夜は夥しい骸骨の死の行進だ。 そのひとりひとりの顔が私の顔。哲学者がぶつぶつ歩きながらつぶやく先…

厳密な普遍性を含む判断を下す人間の能力は特別な源泉の存在を示唆し、それは《アプリオリな認識の能力》と呼ばれる

1. アプリオリな認識 ↔ 経験的な認識(アポステリオリな源泉による)2. アプリオリな認識 > 純粋な認識(経験的なものがまったく入っていないアプリオリな認識) 例:「あらゆる変化には原因がある」=アプリオリな命題だが純粋ではない。変化という概念…

「アプリオリな総合判断」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言 

・・・・ それゆえ、 重さという述語と物体という概念との総合の可能性が基づいている元は、 経験なのである。 ☆ところが、 アプリオリな総合判断の場合は、 このようなよりどころがまったく見あたらないのである。私がAという概念を超え出なければ、別のB…

「経験判断は、 それ自体全て総合的である。」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言 

・・・ 理性が、 与えられた概念に全く異質な、 しかもアプリオリな概念をつけ加えると、 理性は自分でも気がつかずに、 まったく別種の主張を横領する。ところが、 人は理性がどうしてそういうことにいたるか知らないし、 そのような問いに思いいたることさ…

「知性は一体どのようにこれらすべてのアプリオリな認識に達することができたのか、 またそれらはどれほどの範囲と妥当性と価値をもつのであろうか」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言

III 哲学はすべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学問を必要とする ・・・ 人はむしろその前に、 次のような問いを投げかけられていたということである。 すなわち、 知性は一体どのようにこれらすべてのアプリオリな認識に達することがで…

「実体という概念は、 自分たちのアプリオリな認識能力の中に座を占める」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言

序言 II われわれはある種のアプリオリな認識をもっており、常識でさえけっしてそれを欠いていないところで、 このような必然的な、 もっとも厳密な意味での普遍的な判断、 つまりはアプリオリで純粋な判断が人間の認識の中に実際に存在するということを示す…

"自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法"より、1920年6月20日シュツットガルトにおける講演録(質疑#4)を読む独逸語の勉強#1

Frage: (質問)Wir müssen den bestimmten Glauben haben, daß die Mühe, die wir aufwenden, sich auch lohnen wird. 私たちは、 苦労すれば、それはまた報われるだろうというある種の信念をもっているはずです。Ist es überhaupt möglich, das Geistesleb…

「われわれが何によって純粋認識を経験的認識からきっぱり区別できるのか」 イマヌエル・カント”純粋理性批判”序言

序言 I 純粋な認識と経験的認識の区別について以下ではアプリオリな認識とは、 そのときどきの経験から独立した認識ではなく、 一切の経験からまったく独立に成立する認識を意味するということにする。このような認識には経験的認識や、 アポステリオリに、 …

決闘

ポットのお湯でインスタント珈琲を淹れていたら、舞台上の大時代的俳優のような大げさな身振りで何かを口走る安藤君を思い出し、それが”ゴーガンダンテス”のキャラクターと重なった。少し滑稽で愛すべき伊達男達。やはり死すべき運命だったのか。ゴーガンダ…

「純粋理性自身のこの避けることのできない課題とは、 藭、 自由そして不死である」 イマヌエル・カント「純粋理性批判 」序文より

・・・それよりももっと述べたいのは次のことである。 ☆すなわち、 ある種の認識はさらに、 一切の可能的経験の領域を離れて、 経験の中のどこにも対応する対象が与えられえないような概念によって、 われわれの判断の範囲を、 経験の一切の限界のかなたにま…

「観念論は、・・・哲学と一般的な人間理性のスキャンダルであることに変わりはない」 カント「純粋理性批判」第二版序文より

本来の増補 ー それも単に証明法という点においてだが ー を挙げるとすれば、 それは心理学的観念論に対する新たな論駁によっておこなったものと、 [上巻304頁で]、 外的直観の客観的実在性に関する厳密な(思うにまた、唯一可能な)証明によっておこなっ…

「思弁的理性は、 真の構造を含んでおり、 そこにおいてはすべてが器官である。」  カント「純粋理性批判」第二版序文より

独断論とは、 理性自身の能力を前もって批判することのない純粋理性の独断的な手続きのことである。 ☆・・・・もう一つには、 事柄の性質、 すなわち純粋な思弁的理性の本性に帰せられる。思弁的理性は、 真の構造を含んでおり、 そこにおいてはすべてが器官…

「批判の効果」  イマヌエル・カント「純粋理性批判 上」第二版の序文より

しかし今や、 批判によって、 唯物論、 運命論、 無神論、 自由思想的不信仰論、 狂信、 迷信といった、 一般に有害となりうるものや、 果ては観念論や懐疑論という、 どちらかというと学派にとって危険で、 一般人には浸透しにくいものさえも、 根絶されう…

「純粋な思弁的理性の固有性・アプリオリな認識 + 認識の原理に関する有機体的統一性・完全性 = 根本学・形而上学としての”批判”」  カント「純粋理性批判」第二版序文より

ところで、 この純粋な思弁的理性の批判という仕事の核心だが、 それは、 今述べてきた、 形而上学のこれまでのやりかたを変革する試みにある。そしてその試みは、 幾何学者と自然科学者の前例にならって、 形而上学の全面的な革命にとりかかることによるも…