アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「経験判断は、 それ自体全て総合的である。」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言 

・・・
理性が、
与えられた概念に全く異質な、
しかもアプリオリな概念をつけ加えると、
理性は自分でも気がつかずに、
まったく別種の主張を横領する。

ところが、
人は理性がどうしてそういうことにいたるか知らないし、
そのような問いに思いいたることさえない。

それゆえ私は、
早速はじめに、
このような二種の認識様式について述べることにしたい。
 
  ☆
 
IV 分析判断と総合判断の区別について

すべての判断においては、
述語に対する主語の関係が考えられる(ここでは肯定判断のみを考慮に入れることにする。後で否定判断に応用することは容易だからである)。

そしてこの関係は二通りの仕方で可能である。

一つは、
述語Bが主語概念Aに(隠れた仕方で)含まれているものとして、
主語Aに属する場合である。

もう一つは、
述語Bが主語Aと結合してはいるが、
主語Aのまったく外にある場合である。

第一の場合、
私は判断を分析的と呼び、

第二の場合を、
総合的と呼ぶ。

  ☆
  
それゆえ、
分析判断(肯定的)は、
述語と主語の結合が同一律によって与えられるような判断である。

それに対して、
この結合が同一律ぬきに考えられるような判断は、
総合判断と呼ばれてしかるべきである。

分析判断はまた解明判断と呼ばれ、
総合判断は拡張判断と呼ばれうるであろう。

  ☆
  
というのも、
分析判断は述語によって主語の概念に何もつけ加えることはなく、
主語の概念を単に分析によって、
すでに述語の概念において(混乱したまま)考えられていた部分概念へと分解するだけだからである。

それに対して、
総合判断は主語の概念においてまったく考えられていなかった述語を、
主語の概念につけ加える。
この述語は主語の分析によって引きだされうるものではない。

  ☆

たとえば、
私が「すべての物体は広がりをもつ」
と言ったとしよう。

そうすると、
これは一つの分析判断である。

なぜなら、
「広がり」を、
物体と結びついたものとして見出すために、
私は自分が物体と結びつける概念を超え出るにはおよばないからである。

そうではなく、
私は物体の概念をただ分析するだけでよいからである。

すなわち、
広がりという述語を見つけるためには、
私は、
自分が物体においていつも考えている多様なものを意識するだけでよいのである。

したがって、
これは分析判断である。

  ☆

それに対して、
私が「すべての物体は重さをもつ」と言ったとしよう。
すると、
述語は私が物体一般という単なる概念において考えているものとはまったく別物である。
それゆえ、
このような述語をつけ加えることは、
一つの総合判断を生じさせることになる。

  ☆

経験判断は、
それ自体全て総合的である。

なぜなら、
分析判断を経験に基づかせるのは不合理だからである。

というのも、
分析判断をつくりだすために、
私は私の概念を超え出るにはおよばず、
したがってそのために経験の証言を必要としないからである。

  ☆

「物体は広がりをもつ」はアプリオリに成り立つ命題であり、
経験判断ではない。

なぜなら、
私が経験に赴く前に、
私は私の判断のためのすべての条件を、
すでに概念の中にもっているのであり、
私はその概念から矛盾律によって述語を正しく引きだし、
それによって同時に、
私は判断の必然性を意識することができるからである。

経験はけっしてその必然性を私に教えてくれないであろう。

  ☆

それに対して、
たしかに私は物体一般という概念に重さという述語をまったく含めてはいない。

それでも、
物体の概念は経験の一部によって経験の対象であることを表しているため、
私はこの一部に、
まさに同じ経験の、
物体という概念に属していた以外の他の部分をもつけ加えることができるのである。

私は物体という概念を、
広がり、
不加入性、
形態、
等、
すべてこの概念において考えられる特性をとおして、
あらかじめ分析的に認識することができる。

  ☆

ところで一方、
私は自分の認識を拡張して、
私がこの物体という概念を引きだした元である経験を振り返ってみると、
私は今挙げた特性に主さもつねに結びついていることを知り、
そのようにして重さを述語として物体の概念に総合的につけ加えるのである。

  ☆

それゆえ、
重さという述語と物体という概念との総合の可能性が基づいている元は、
経験なのである。

  ☆

というのは、
一方が他方に含まれていないにせよ、
それにもかかわらず、
ともに全体の部分として、
すなわち、
それ自体直観の総合的結合である経験の部分として、
たとえ単に偶然的にせよ、
互いにあいともなっているからである。

  イマヌエル・カント純粋理性批判 上」序言 
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)