III 哲学はすべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学問を必要とする
・・・
人はむしろその前に、
次のような問いを投げかけられていたということである。
すなわち、
知性は一体どのようにこれらすべてのアプリオリな認識に達することができたのか、
またそれらはどれほどの範囲と妥当性と価値をもつのであろうか、
と。
☆
数学は、
われわれが経験とは独立に、
アプリオリな認識において、
どこまで達することができるかの、
輝かしい実例を示してくれる。
☆
ところで数学は、
たしかに単に直観において示されるかぎりにおいて、
対象と認識に関わる。
しかし、
その事情を見渡すのは容易である。
というのは、
問題となっている直観自体がアプリオリに与えられているからであり、
その意味で、
単なる純粋概念といっこうに区別がつかないからである。
☆
理性の力を示すこのような実例に心を奪われて、
認識を拡張しようとする衝動はとどまるところを知らない。
軽やかな鳩は、自由自在に飛んで空気を切ると抵抗を感じるので、
真空の空間の中でならずっとうまく飛べると思うかも知れない。
☆
同じようにプラトンは、
感覚界は知性にたいそう窮屈な束縛を加えるため、
感覚界を離れ、
イデアの翼に身をまかせて感覚界のかなたへと、
純粋知性の空虚な空間の中へ勇んで出たのである。
彼は、
そのように苦心しても先へ進めるわけがないことに気付かなかったのである。
なぜなら、
彼には、
自分を固定できるような支えがなかったからであり、
知性をその場から連れだすべく、
持てる力を適用できるような支えが、
いわば土台につながる支えがなかったからである。
しかし理性の建物を出来るだけ早く完成させ、
その後でやっと、
基礎もちゃんと敷かれているかどうかを調査するというのが、
思弁における人間理性のごく普通の運命である。