アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「実体という概念は、 自分たちのアプリオリな認識能力の中に座を占める」 イマヌエル・カント ”純粋理性批判” 序言

序言 II われわれはある種のアプリオリな認識をもっており、常識でさえけっしてそれを欠いていない

ところで、
このような必然的な、
もっとも厳密な意味での普遍的な判断、
つまりはアプリオリで純粋な判断が人間の認識の中に実際に存在するということを示すのは、
容易である。

学問の中から一例を挙げるとすれば、
数学のすべての命題に目を向けさえすればよい。

  ☆

同じような例をごくごく日常的な知性使用から挙げようとすれば、
「すべての変化には原因がなければならない」という命題が役立ちうる。

さよう、
こちらの場合、
原因という概念がすでに、
結果と結びつく必然性と、
規則の厳密な普遍性という概念を含んでいることは明らかなのである。

そのため、
原因の概念を ー ヒュームが行ったように ー 
なにかが起これば、
先立つ何かがそれに随伴するということから導き出そうとしたり、
またそのことによって生じる二つの観念を結びつける習慣(すなわち単に主観的な必然性)から導き出そうとすれば、
原因の概念は台無しになってしまうであろう。

  ☆

また、
われわれの認識におけるアプリオリで純粋な還俗が実際に存在することを証明するために、
このような実例をもちだすまでもなく、
これらの原則が、経験そのものが可能性となるために不可欠であることを示すことができ、
つまりはアプリオリに示すことができるであろう。

というのも、
もし経験がなりゆくための規則がすべてそのつど経験的なものであり、
したがって偶然的なものであったとすれば、
経験といえども、
その確実性をどこから得てくるというのであろうか。

その場合、
これらの規則を第一の規則として通用させることは、
とうていできないのである。

  ☆

しかし、
ただ単に判断においてだけでなく、
概念においてさえ、
それらのいくつかがアプリオリな起源をもつことが明らかになる。

  ☆

物体という諸君らの経験概念から、
すべての経験的なものを徐々にとり去っていくがよい。

色、
堅さあるいは柔らかさ、
重さ、
そして不加入性さえもとり去っていくがよい。

すると、
物体(これはすでにまったく消え去っている)が占めていた空間は後に残り、
これを諸君はとり去ることはできない。

  ☆

同じように、
諸君が物体的・非物体的なあらゆる客体の経験的概念から、
経験が教えてくれる性質をすべてとり去るとしよう。

それでも諸君は、
諸君が客体を実体として、
あるいは実体に付随するものとして考えるための性質を、
客体から奪うことはできないのである(この実体という概念は客体一般という概念より多くの規定を含んでいるとはいえ)。

それゆえ、
諸君は客体という概念が諸君に迫る必然性に導かれて、
次のように告白しなければならない。

「実体という概念は、
自分たちのアプリオリな認識能力の中に座を占める」、
と。

 イマヌエル・カント純粋理性批判 上」序言 
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)