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それゆえ、
重さという述語と物体という概念との総合の可能性が基づいている元は、
経験なのである。
☆
ところが、
アプリオリな総合判断の場合は、
このようなよりどころがまったく見あたらないのである。
私がAという概念を超え出なければ、別のBという概念を総合的に認識できないとしよう。
その場合、
私がたのみとするのは何であり、
総合は何によって可能なのであろうか。
というのは、
この場合、
私はそれらを、
経験の領域に求めるという頼みの綱をもちあわせていないからである。
☆
「生じくるものにはすべて原因がある」という命題をとりあげてみるがよい。
生じくる何かあるものという概念において、
たしかに私は、
ある現実存在を考え、
その前にある時間が先行すること、
等を考え、
そこから分析判断が引きだされうる。
しかし、
原因という概念は、
生じくるものという概念のまったく外部にあり、
生じくるものとは異なった何かを示しており、
したがって生じくるものという観念には含まれていない。
いったい私はどのようにして、
そもそも生じくるものについて、
それとはまったく異なったことを語り、
原因の概念は、
生じくるものに含まれていないにもかかわらず、
それを生じくるものに属するものとして、
しかも必然的に属するものとして認識するようになるのであろうか。
☆
知性がAという概念の外部に、
それとは異なったBという述語を見出すと信じ、
それでもなお、
その述語をAと結びついていると見なすとすれば、
そこで知性がよりどころとする未知のもの=Xとは何であろうか。
☆
経験がそれであることはできない。
というのも、
今引用した原則は単により大きな普遍性によってではなく、
なおかつ必然性という表現でもって、
したがって完全にアプリオリに、
そして単なる概念から、
結果という観念に原因という概念をつけ加えるものだからである。
☆
ところで、
われわれのアプリオリな思弁的認識の究極目的全体は、
このような総合的原則に、
つまりは拡張的原則に基づいているのである。
なぜなら、
たしかに分析判断はきわめて重要であり必要ではある。
しかしそれは、
単に概念の次のような判明性にいたるためにすぎない。
すなわち、
真に新たな獲得としての確かで広範な総合のために必要な判明性である。