アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「形而上学はわれわれのアプリオリな認識を拡張しようとしているのである」 カント

V 理性のすべての理論的な学問にはアプリオリな総合判断が原理として含まれている

1.数学的判断はすべて総合的である。

1−a. 例(純粋数学):7+5=12.
人は二つの概念(7および5)のうちのどちらかに対応する直観をたよりに、
これらの概念を超え出なければならない。
12に出会うためには。
直観としての私の手の指。

1ーb. 例(幾何学):直線は二点間の最短コースである。
これは総合的命題である。なぜなら、直(まっすぐ)という概念は、量に関するものを何も含んでおらず、質を含んでいるだけだから。

2.自然科学(Physica)はアプリオリな総合判断を原理として内に含んでいる。
例:物体界のすべての変化において、物質の量は不変のままである。
例:すべての運動の伝達において、作用と反作用はつねに等しくなければならない。
これら命題の必然性(根源がアプリオリであること)、総合的命題であることは明らか。

3.形而上学
3−a. それが人間理性の本性による不可欠の学問と見なされるとすれば、そこには当然、アプリオリな総合判断が含まれていなければならない。

  ☆

形而上学において)
われわれはわれわれのアプリオリな認識を拡張しようとしているのであり、
そのためにわれわれは、
そのような原則(アプリオリな総合判断が含まれていなければならない)を用いなければならないのである。
そのような原則は与えられた概念を超えて、
その概念に含まれていなかった何かをつけ加えるのである。

そしてわれわれは、
アプリオリな総合判断をとおして、
そこまでは経験自身もわれわれについてこられないほど、
はるかにまで出ていくのである。

たとえば、
「世界には第一の初めがある」という命題、
等においてである。

こうして、
形而上学は少なくともその目的からみて、
明白なアプリオリな総合判断から成り立つ。

 イマヌエル・カント純粋理性批判 上」序言 
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷) 【読書ノート】