ところで、
この純粋な思弁的理性の批判という仕事の核心だが、
それは、
今述べてきた、
形而上学のこれまでのやりかたを変革する試みにある。
そしてその試みは、
幾何学者と自然科学者の前例にならって、
形而上学の全面的な革命にとりかかることによるものである。
この批判は方法に関する論文であって、
学問の体系そのものではない。
それでもなお、
批判は学問の限界とその全内部構造の両方に関して、
見取り図全体を描くものである。
なぜなら、
純粋な思弁的理性には次のような固有性があるからである。
すなわち、
思弁的理性は、
それが思考の客体を選ぶ仕方に応じて、
自分自身の能力を測り、
また自らに課題を提出するさまざまな仕方をさえも完全に枚挙し、
その上で、
形而上学の大系の全略図を描くことができるし、
またそうすべきだということである。
というのは、
第一の点に関して言えば、
アプリオリな認識においては、
考える主体が自分自身の中からとりだしてくるもの以外は、
客体につけ加えることはできないからである。
まだ第二の点について言えば、
思弁的理性は認識の原理に関して、
一個の完全に隔離された、
それ自身で成り立つ統一体だからである。
このような統一体においては、
有機体のように、
それぞれの部分は他のすべての部分のためにあり、
また、
すべての部分は一つの部分のためにある。
そこにおいては、
どの原理も、
同時に純粋な理性使用全体への網羅的関係において調べがついていなければ、
それを一つの関係において、
安心して採用することはできないのである。
☆
それゆえ、
形而上学は根本学として、
このような完全性を旨としており、
形而上学については次のように言われるのである。
「何かまだやりのこされていることがあるかぎり、
形而上学は、
まだ何もなされていないと見なす」。