アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「思弁的理性は、 真の構造を含んでおり、 そこにおいてはすべてが器官である。」  カント「純粋理性批判」第二版序文より

独断論とは、
理性自身の能力を前もって批判することのない純粋理性の独断的な手続きのことである。

  ☆

・・・・もう一つには、
事柄の性質、
すなわち純粋な思弁的理性の本性に帰せられる。

思弁的理性は、
真の構造を含んでおり、
そこにおいてはすべてが器官である。

すなわち、
すべては一つのためにあり、
どれ一つとってもすべてのためにあり、
したがって、
たとえどんなに些細な不備も、
それがまちがい(誤謬)であり欠陥であるということが、
実際に使用されるなかで否応なしに露見するのである。

  ☆

願わくば、
この体系は、
このように不変なままで、
今後も永らえるものであってほしい。

  ☆

私のこのような信頼は、
うぬぼれによって正当化されるのではない。

正当化してくれるのは、
むしろただ、
生じた帰結が等しいということを示す実験からくる明白さである。

すなわち、
最小限のエレメントから出発して、
純粋理性の全体にいたる帰結と、
全体(この全体もそれ自体純粋理性の究極目的によって実践的なものにおいて与えられているのだから)から各部分に戻る結果が等しいという実験からくる明白さである。

  ☆

というのも、
ほんの最小部分でも変更しようとすると、
直ちに矛盾が生じ、
それも単に体系の矛盾ではなく、
普遍的理性の矛盾だからである。

  イマヌエル・カント純粋理性批判 上」第二版の序文
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)