エルネスト・ルナンは一八八三年三月、『ジュルナル・デ・デバ』という新聞によく寄稿していたパリ在住のアラブ人亡命者の紹介で、アフガーニーに会った。のちにルナンはこう書いている。「かくも強烈な印象を残した人物というのはめったにいない。」二人の対談を踏まえ、ルナンは『イスラームと科学』と題する論文を発表し、ソルボンヌで講演した。アフガーニーはこれに応じて長い論説を書いた。ルナンはこれに返答する。これが、ムスリムとヨーロッパ知識人とのあいだで交わされた最初の本格的な公開論争であり、後年、近代世界でイスラームに関して西欧側でなされる多くの議論の原型となった。
この論争の口火を切ることになった論文で、ルナンはヘレニズム文化を褒めたたえ、イスラームを専制主義とテロリズムを懐胎させたものであると弾劾した。彼は人種による上下関係の有効性を唱え、理性・経験主義・勤勉・克己・適応性が西欧人の特徴であり、西欧人によって支配される者というのは、こうした諸特質をほぼ完全に欠いた人種であるとした。「イスラームを弁護する進歩主義者たちは、こういうことを知らないのだ」と、彼は論文のなかで断言する。「イスラームとは(・・・)独断的信念が君臨するところであり、人間性を永遠に拘束する重い鎖に等しい」。
ルナンは、彼自身やほかのヨーロッパ無神論者がカトリックに対して論戦を張るときの用語に似た言葉遣いで、イスラームを攻撃した。超自然的啓示を謳うイスラームは、理性の侮辱であり思想の自由を踏みにじるものである、と。
彼はまた、社会の進歩というのは白人とキリスト教徒にのみ与えられた特権であると声高に決めつけ、イスラームと近代科学は水と油だというのだった。
哲學と科學におけるアラブ人の功績というのは、イスラームに反旗を翻したギリシャ人とペルシア人から多くを借用した転向者同然の連中の仕事にすぎぬ、とあしらった。
☆
アフガーニーは、ペルシアのイスラーム哲學者たちはムスリムでありアラビア語で仕事をしていたことを指摘し、ルナンの人種差別的議論をたやすく論破した。しかし彼は、近代イスラーム思想家が誰も越えなかった一線を越えて、宗教にありがちは知的欠陥というルナンの見解に同意する。無論、彼はイスラームばかりをその典型のように扱うことに異議を唱えた。
すべての宗教は最初、理性と科學に対する偏狭な面を示しがちだが、こうした偏見から解放されるには時間がかかる、と彼は言う。長い学習曲線の上で、イスラームはキリスト教から何世紀も遅れたところにいる。
「イスラームは科學を抑壓しようとし、その進歩を妨げてきた」が、知的探求の傳統と両立してきたし、今後もそれは引き続き可能である。その可能性を信じることは重要だ。さもないと「何億もの民が、無知と野蛮のまま生きるべく運命づけられるだろう。」
☆
ルナンはこれに対する返答を、見下した調子で始める。
「蒙昧から目覚めたアジア人の思想を、原初的で純粋な状態で検討してみるほど有益なことはなかろうと思う。」彼は、アフガーニーのような知的なムスリムは「イスラームの偏見からまったく無縁な人々」であり、さらにはペルシアやインドという「表面的には公式イスラームの衣をまとっているが、一皮めくればアーリア人種の虗藭が依然活発に息づいている」国から来た人々なのだ、と力説する。
さらに彼は、アフガーニーに対してある程度同情を示し、「アベロエスがイスラームから受けたのと同じように、ガリレオもカトリックからひどい仕打ちを受けたのだ」と認めた。
論争はここで幕を閉じた。
☆
當時、アブドゥとアフガーニーにとって、とりあえずイスラームは政治的に人々を動員するための倫理的根拠であり発奮の動因なのであった。
そしてアフガーニーは、完全に世俗的な社会というのは、十九世紀理性主義が夢見たものであったけれど、西欧における夢物語にとどまるしかなく、それはムスリム世界においても同じだ、という卓見を示していた。ルナンに宛てた返答のなかで、彼はこの点について結論づけている。
大衆は理性を嫌います。教えたところで理解するのはわずかな人だけです。科學はたいへんすばらしいものかも知れませんが、人類の理想に対する渇望、あるいは哲學者や古典学者が見ることも探求することもできぬ暗く遠い彼方への飛翔を、完全に満足させることはできません。
パンカジ・ミシュラ「アジア再興 ー帝国主義に挑んだ志士たち」第二章「アフガーニーの風変わりなオデュッセイア」(園部哲訳、白水社、2014年10月発行)