・・・それよりももっと述べたいのは次のことである。
☆
すなわち、
ある種の認識はさらに、
一切の可能的経験の領域を離れて、
経験の中のどこにも対応する対象が与えられえないような概念によって、
われわれの判断の範囲を、
経験の一切の限界のかなたにまで拡張するかのような外見を帯びているということである。
そして、
このような感覚界を超え出る認識においては、
経験はなんら導きの糸も与えてくれないし、
まちがいを正してもくれないのだが、
そこにこそわれわれの理性の探究があるのである。
われわれはこの探究をその重要性から見て、
知性が現象の領域から学びうるどのようなことよりもはるかに優れ、
その究極目的をはるかに崇高なものと見なす。
その際、
われわれは躊躇のようなものを口実にしたり、
軽視や無関心から、
これほど重要な研究をなまじあきらめるよりも、
まちがう危険を冒してまでも、
すべてを敢行するのである。
純粋理性自身のこの避けることのできない課題とは、
藭、
自由そして不死である。
☆
そして、
そのすべての装備を挙げて、
本来これらの課題の解決のみを究極目的とする学問を形而上学という。
☆
形而上学の方法は、
はじめは独断的で、
これほどにも重大な企てのために理性の能力・無能力を前もって吟味することなく、
自信満々、施工を請け負っている。
イマヌエル・カント「純粋理性批判 上」
序文 III 哲学はすべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学問を必要とする
(石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)