アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「われわれが何によって純粋認識を経験的認識からきっぱり区別できるのか」 イマヌエル・カント”純粋理性批判”序言

  序言 I 純粋な認識と経験的認識の区別について

以下ではアプリオリな認識とは、
そのときどきの経験から独立した認識ではなく、
一切の経験からまったく独立に成立する認識を意味するということにする。

このような認識には経験的認識や、
アポステリオリに、
つまり経験をとおして可能となる認識が対置される。

さらに、
アプリオリな認識のうち、
経験的なものがまったく混入していない認識を純粋な認識という。

とすると、
たとえば「あらゆる変化には原因がある」という命題はアプリオリな命題ではあるが、
純粋ではない。
というのは、
変化という概念は経験からしか抽斗得ない概念だからである。

  序言 II われわれはある種のアプリオリな認識をもっており、常識でさえけっしてそれを欠いていない

ここで問題となるのは、
われわれが何によって純粋認識を経験的認識からきっぱり区別できるのか、
その目印である。

たしかに経験は、
何かが「かくかくしかじかである」ということを教えてはくれる。
しかし、
「それ以外ではありえない」ということを教えてはくれない。

それゆえ第一に、
ある命題が同時に必然性を備えていると考えられれば、
その命題はアプリオリな判断である。

その上さらに、
その命題がまた、
同じようにそれ自身必然的な命題として通用する以外のいかなる命題からも導き出されていないとしよう。
そうすると、
その命題は絶対的にアプリオリである。

  ☆

経験は判断にけっして真の普遍性を、
あるいは厳密な普遍性を与えてくれない。

経験は単に仮の比較的な普遍性(帰納による)を与えてくれるだけである。

そのため、
本来次のように言わなければならない。
「われわれがこれまで見てきたかぎりでは、
あれこれの規則に関して例外は見られない。」、
と。

したがって、
ある判断が厳密な普遍性をもつと考えられ、
一つの例外も可能であることが許されないようであれば、
その判断は経験から導き出されたものではなく、
絶対的にアプリオリにあてはまるのである。

それゆえ、
経験的な普遍性は、
単に多くの場合に通用する妥当性を、
すべての場合に通用する妥当性へと勝手に昇格させたものにすぎない。

たとえば、
「すべての物体は重さをもつ」
という命題がそうであるように。

  ☆

それに対して、
ある判断に厳密な普遍性が本質的に含まれている場合、
このような普遍性はその判断が特別な認識源泉に由来することを、
すなわちアプリオリな認識の能力に由来することを示唆しているのである。

それゆえ、
必然性と厳密な普遍性とはアプリオリな認識の確かな目印であり、
互いに分かちがたく結びついている。

  ☆

ただ、
これらの目印をもちいる際、
経験的に制約されていることを判断における偶然性として示す方が、
時として容易である。

あるいはまた、
多くの場合、
われわれがある判断に帰する無制限な普遍性を、
その判断の必然性として示す方がわかりやすい。

そのため、
今言った二つの基準はどちらもそれ自身で確かであり、
それらを別々にもちいることが得策である。
  
 イマヌエル・カント純粋理性批判 上」序言 
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)