アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

カント「純粋理性批判」第二版序文より「道徳について」

ところで、
次のように仮定してみよう。
すなわち、
道徳は必然的にわれわれの意思の特性としての自由(もっとも厳密な意味での)を前提とする、
と。

というのは、
道徳はわれわれの理性の中にある実践的で根源的な原則を、
自由のアプリオリなデータとして挙げるからである。

このような原則は、
自由を前提としなければまったく不可能なはずなのである。

ところが、
思弁的理性が自由などまったく考えられない、
と証明したとしよう。

そうすると、
今言った道徳的前提は必然的に次のような前提に屈服せざるをえない。

すなわち、
その前提を逆転すれば明らかな矛盾におちいり、
結果的に自由もろとも道徳性が自然のメカニズムに座をあけわたすような前提である(なぜなら、このような逆転は、自由を前提しさえしなければ、矛盾を含まないからである)。

しかし、
そうではあっても、
道徳のために私が必要としているのは、
自由が自己矛盾だけはしていないということ、
したがって少なくともれっきとして考えられうるということだけであって、
それ以上ではない。

自由がまったく同一の行為(別の関係で見られた)の自然のメカニズムをなんら妨害するものではないことを、
さらに見抜く必要はない。

こうして、
道徳性の教えはその領分を確保し、
同じく自然の教えもその領分を確保するのである。

だが、
批判があらかじめ、
物それ自体に関しては、
われわれの無知は避けることができないということを教えてくれなかったなら、
また、
われわれが理論的に認識できることを、
すべて単なる現象に制限しておかなかったならば、
そうはならなかったであろう。

まさに、
純粋理性の批判的原則の積極的な効用をこのように解明することは、
藭とわれわれの魂の単純な本性の概念に関して示されうるのだが、
簡明を期してここではそれに立ち入らないことにする。

  イマヌエル・カント純粋理性批判 上」第二版の序文
 (石川文康訳 筑摩書房 2014年3月5日初版第一刷)