アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

私の意識の感覚領野においては、 いかなる対象も同時に物理的でありかつ心理的である。(マッハ)

・・・
感覚する主体にとっては、
光の感覚は初めから一定の空間感覚と結びついているのであるから、
そもそもそうい問題(注:網膜上の倒立像がなぜ正立して見えるのか)は存在しない。

視感覚および蝕感覚はさまざまな空間感覚と結びついている、
すなわち、
これらは並存的かつ相互外在的に存在し、
空間的場 ーわれわれの身体はその一部を充たしているにすぎないー のなかにある。

  ☆

物理學の「概念」は、
前章においてABC・・・で標記された感性的諸要素の一定種類を表徴する(ベドイテン)にすぎないという考え方を堅持する。

これら諸要素 ー従来それ以上の分解が成就されていないという意味での諸要素ー が、
物理學的(ならびに心理学的)世界の最も単純な建築材料である。

 ☆

この緑色の感覚といったものは、
実際まったく新しい異様なものとして立ち現れるのであって、
われわれはこの不可思議な代物が、
化学的過程、
電流、
等々から、
一体どのようにして出現しうるのであるか、
と自問する。

 ☆

しかし、
緑色(A)それ自体は、
われわれが依嘱関係のいずれの形式に注意を向けるかということに関わりなく、
その本性上は不変である。

従って、
私は、
心理的なものと物理的なものの対立ではなくして、
これら要素に関しての完き同一性を看て取る。

私の意識の感覚領野においては、
いかなる対象も同時に物理的でありかつ心理的である。

 ☆

以上の一般的概観によって、
物理・心理的な感性的領野の特殊研究が決して無用になるわけではない。

そういう特殊研究が、
ABC・・・の特有な聯関を探求すべき課題を担っている。

象徴的〔記号的〕に表現すれば、
特殊研究の目標は(A、B、C、・・・)=0という方程式を見出すことだといえよう。

注:ここでは、A(緑色)、B(或る視空間感覚)、C(或る蝕感覚)、D(太陽ないしランプのあかり)、等々。

 エルンスト・マッハ「感覚の分析 第二章 いくつかの先入見について」
    須藤吾之助・廣松渉訳(法政大学出版会、2013年10月新装版第一刷)
  
マッハを読んでいて腦裡に浮かぶのは「それは問題の断念・放棄を、あたかもその問題が存在しないかのように言いくるめる自己欺瞞的な態度にすぎないのではないか?」という疑念だ。そうすれば、どこまでも前進できる。確かに、そういう生活態度こそが、われわれ”現代人”の日常をよどみなく進行させているとも云える。

方程式(A、B、C、・・・)=0を見出す事(つまり感覚の分析!)で、人間が分かるわけでは無い。それは、確かに科学と技術には貢献してきたわけですが。しかし、すでに我々は、そういうマッハ的な生活態度の行き着く涯てまで来てしまっている。

その虚無主義虚無主義と感じられないことのやりきれなさ(一種の人間放棄)。
最近、同じことを、全く別の問題で感じたのですが、思い出せない。