しかし、
本当の原理は「思考」にある。
「思考は思考によってのみ動かされる」のだから。
思考が対象をとるので、
思考こそがものを動かす不動の存在なのです。
と言っても、
思考の内容は思考にほかならず、
思考の産物にほかならず、
かくて、
不動の思考は思考活動そのものと完全に一致しているのです。
つまり、
思考のうちには、
動かすものと動かされるものが同じものだ、
という同一性が成り立っている。
目は信用できないが、
「思考はそれとはまったく別系統のいとなみで、
自分自身で独自の地平をなし、」
自分自身を対象として絶対的にうち立てる。
「そして、
この系列の第一位にくるのが実体であり、
そして、
第一原因たる実体は(一ではないが)単純なものであり、
純粋な活動力である。」
思考の本質は思考であり、
思考こそが絶対の原因であり、
みずからは不動にして、
みずからの活動によってうみだした思考と同一の存在なのです。
「美や最善(義務、絶対的なもの、最終目的など)はまさにこのような、
ものを動かす不動の存在である。」
「だが、
目的もまた、
その概念からして、
不動の存在である。」
・・・
知の原理たる概念が(存在の原理)でもあるというのです。
アリストテレスはこうした不動の存在を藭とよび、
それと個々の意識の関係を説明します。
☆
アリストテレス哲学の中心軸は、
思考と思考されるものとが一つであること、
ー 客観と思考(活動)とが同一であること、ー にあります。
「なぜなら、
思考されるものや実在をとらえるのが思考なのだから。」
思考とは思考の思考なのです。
思考についてアリストテレスはこう言っています。
「思考はなにかをもつかぎりで活動する(いいかえれば、思考の所有は思考の活動と一致している)。
だから、
思考の活動は、
知性がその内容を神々しいものだとほこらしげに考える以上に神々しい。」
・・・
人間はおどろきによって、
ーより高いものの予感や直観や知によって、ー哲学へと向かう。
「藭はそうした状態にあり、
しかも藭のうちには生命が波打っている。
なぜなら、
思考の活動が生命だから。」
もっとうまくいえば、
知性(ヌース)の生命が活動だから。
「藭は活動であり、
自分自身にむかう活動が藭の最上かつ永遠の生命である。
われわれは、
藭が永遠かつ最善の生命であるといいたい。
この実体には大きさがない。」
☆
概念のいうところにしたがえば、
真理は主観と客観の統一であり、
どちらか一方だけで真理というわけにはいかない。
この深遠きわまる思索の形式がアリストテレスの格闘の対象でした。
それ自体で存在する対象は可能的(デュナミス)なものにすぎず、
真理は主客の統一である。
が、
統一という表現は適切ではなく、
分析的知性のたんなる抽象ととられかねません。
哲学は統一性の体系ではなく、
同一性はむしろ非哲学的なものです。
アリストテレスも無内容な同一性を最高の藭と考えたわけではなく、
現実の活動力こそが藭だと考えた。
藭の活動力とは、
運動や反発をふくむ活動であり、
死んだ同一性ではない。
区別をおこないつつ、
同時に自己と一体化するのが藭の活動です。
アリストテレスが干からびた分析的思考の同一性や分析的思考の経験(”知性のうちにふくまれるすべては感覚のうちにふくまれwる”)を原理にしていたとすれば、
彼が知性(ヌース)と思考されるものという哲学的な理念に到達することはなかったでしょう。
☆
すべてを思考によって観察し、
すべてを思考に転化するのが、
アリストテレスの哲学的思索なのです。
アリストテレスが対象を思考し、
対象が思想として存在するに至るとき、
対象は真の存在となる。
それが対象の本質です。
といっても、
自然の対象がそれ自体、
思考として存在するというのではない。
対象は私によって主観的に思考され、
そして、
わたしの思考したことがものごとの概念でもあり、
実体でもあります。
自然のうちには概念が自由な思考として実在することはなく、
概念が血となり肉となっている。
しかし、
自然には魂があって、
それが自然の概念です。
アリストテレスは、
物が全体としてどうあるかを認識するので、
それがものの本質(ウシア)です。
概念は自然のなかでは独立に存在するのではなく、
外面的な存在をまとって奇型を呈しているのです。
(長谷川宏訳ヘーゲル”哲学史講義・中”、B、アリストテレスの哲学、一、形而上学。河出書房新社1994年2月20日再版)
☆
人に会うことが大事なのは分かっていますが、孤独を知る人こそ、友情のありがたみもわかるものです。今は、自分が出会いの広場(笑)だ。その広場で、アインシュタインとマッハとシュタイナーが立ち話をしている。ヘーゲルとアリストテレスも仲間に入りたがっている。それでいいのだ。。。
デュナミス(可能性)としての物質と現実性としてのエネルゲイア。
絶対時間が消失するとき、光が現れる。
☆
魂とはその本質からして完成体であり、理性(ロゴス)であって、ー自主的自発的に、ものごとの一般的なありかたをあきらかにしていくものです。
現実体が完成体とも名づけられるのは、活動がどんな内容でも受け入れる形式的な活動というにとどまらず、一つの目的(テロス)をふくんでいるからです。
・・実体そのものに実現力がそなわる必要があって、だから、精神とはエネルギーを実体とするものなのです。
「さらに、この実体は物質なきものである。」というのも、物質そのものは変化の生じる受動的な土台と考えられていて、純粋で直接に(端的に)統一されてはいないからです。
「純粋な活動は、時間的な観点からではなく、その本質からして、可能性に先立つものである。」
真の実在とは自分の内部で動くもの・・・すなわち、それは目に見える自然のうちに実際に存在するというのです。活動する絶対的実在は、現実のうちにも対象としてすがたをあらわすものだからです。絶対的実在が目に見える自己同一の運動体としてあらわれたのが、永遠の天界です。絶対的なものに二つのあらわれかたがあって、それが思考する理性と永遠の天界なのです。
ヘーゲル「哲学史講義、アリストテレスの哲学」