なほ若し質量に何等かの賓辞的規定を加へた場合たる具體的個體を離れて何ものかが確かにあるとし、
事實それがある場合、
あらゆる事物にその事物を離れて何ものかがあるべきか、
或は或る事物にはそのものを離れてそれがあり他の事物にはそのものを離れてそれが無いのであるか、
或は如何なる事物にもそのものを離れてはそれがあるべきでないのであるか。
若しいま個別的なるものを離れては何ものも存在せぬとすれば、
如何なる思惟的なるものもあること無く、
総ては感性的なるものであり、
従って人が感覚を以つて知識であるとせぬ限り、
何ものも知識であることはできない。
のみならずまた何ものも永遠であり不動であることは出来ないわけである。
何故ならば総ての感性的なるものは消滅するものであり、
運動に於いてあるものだからである。
☆
しかも若し永遠なる何ものも存在せぬとすれば、
また生成もあることは出来ない。
何故ならば生成には生成するあるものと、
それからそのものの生成し来たるものがなければならず、
而してそれ等のものの究極的なるものは生成したものではあり得ないからである。
と云ふわけは生成は停止するところのあるものであり、
而して在らざるものから生ずることは出来ないからである。
更に若しも生成や運動があるとすれば、
また限界も存在しなければならぬ。
その理由は、
如何なる運動も無限では無く、
総て終局(テロス)を持つものであり、
而して生成し了る時初めて存在するものでなければならぬ。
☆
なほしかし乍ら質量が生成し行くところのものでないと云ふ理由に依つて、
[具體的個體から離れて]存在するとすれば、
それの何時か生成し行くところのものたる實體[本質卽ち形相]が[具體的個體から離れて]存在することは、
一層多くの理由を以つて考へられる。
何故ならば、
質量もなく實體[形相]もないとすれば、
全く何ものもあり得ないからである。
しかも若しこのことが不可能であるとすれば、
具體的個體を離れて何ものかがなければならず、
卽ち形態(モルフェー)や形相(エイドス)がなければならぬ。
☆
しからば若し総ての[個別的なる]ものの上に或る一つの[普遍的なる]ものがないとしたならば、
知識は如何にしてあり得るであろうか。
☆
さてヘシオドスの如き人々や其他総ての神学者達は彼等自身にとつて信ぜられ得ることのみを考え、
我々のことは毫も顧みなかつた。
蓋し彼等は藭を以つて原理であるとし、
総てを藭から生まれたものであるとし、
而してネクタールやアムブロシアを味ふたことのない者が死滅的なるものとなつたのであると云つている。
勿論彼等の語る言葉は彼等自身にはよくわかつてゐることであつたのである。
しかし乍ら藭話的な姿で語られている見解を穿鑿することは無駄なことである。
それに反して自己の所説に論證を輿へてゐるものに對しては、
それを吟味しなければならぬ。