アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「死の経済學」と空爆の思想

内橋:
戦時のKill-Ratio、平時のDeath-Ratio。通底しているのは、人間の「生命」をも「効率」という天秤にかけて篩い分ける手法ですね。

「最小の費用で最大の効果を」という冷厳な合理主義は、戦時下でも平時でも、そして人間の生命も生存条件も、決して例外とはしないということがよくわかります。

おびただしい数の市民を、いかに手際よく殺戮するか。

天から降る火塊の下を逃げ惑った私たちは、その恐怖に身を以てさらされた世代です。

私の育った神戸の街が一回目の大空襲に見舞われたのは敗戦の年の三月十七日、ちょうど国民学校を卒業して中学の入学試験を受けた日の夜更けでした。

二回目の大空襲は六月五日、私は中学(旧制)一年生になっておりました。

木造家屋の密集する神戸の市街地に米機が降らせた焼夷弾は、油脂に水素を添加した新型のナパーム弾で、「木と紙と土」でできた日本の家屋をいかに「効率よく」焼き尽くすか、ユタ砂漠(米ユタ州)で繰り返された実験、研究の成果が見事にいかされたものでした。

火の手をあげる家屋にバケツリレーで必死に水を撒けば撒くほど、火炎はその水の上を這うようにして翼をひろげ、たちまち住宅地一帯をなめ尽くし呑み込んでしまう。

まさに「火に油」でした。

油脂と水素で組成された焼夷弾の、計算され尽くした「効率」の良さだったのでしょう。

新しいナパーム製焼夷弾の最初の被爆地が神戸だったいわれます。

 ☆

その実験に加わり、米スタンダード石油会社の技術者らとともに、日本家屋を効率的に焼き尽くす研究に「貢献」したのが、日本では有名な建築家、日本を愛したはずのあのアントニン・レーモンドでした。

帝国ホテルで有名なライトの愛弟子ですね。

彼は、ユタ砂漠の実験場に自ら知り尽くした日本家屋群を緻密に再現し、飛来する陸軍爆撃機の標的としました。

ひとたび戦争となれば、「知」も「知識人」も総動員されます。

私は雑誌『世界』に連載した『荒野渺茫』(2004年1月号〜2006年9月号・未完)に、三月の空襲のとき、焼夷弾に直撃され、防空壕のなかでくずおれ、私の身代わりとなって逝ってしまったある女性の悲痛をえんえんと書きました。

いかに殺戮の効率を上げるか、Kill-Ratioを高めるか。そこに絞られた実験と実践の成果が人間智の蓄積となってやがてベトナムへ、イラクへ、と引き継がれていく。

その流れの水の上を市場原理主義がすいすいと抜き手を切って泳いでいった。いまのお話しから私の胸に沸いてくる思いは、とても限りある時間で表現することができません。

そのカーティス・E・ルメイが戦後来日した折り、日本政府が贈ったのが勲一等旭日大綬章でした(1964年12月)。航空自衛隊の育成に大いに貢献した、という。

「東京も、名古屋も、大阪も、神戸も、そいで原爆まで。あんだけ、ひと殺しといて、勲章か。貰う方も貰う方やけど、やる方もやる方やないか」、そう絶叫したある老人の怒声を私は今でもはっきりと記憶しています。

ルメイは、完璧に近い無差別絨毯爆撃を正当化して、「われわれは紙と木と土の民家を爆撃したのではない。その家のなかで日本人は兵器を作っていた。われわれは敵の軍需工場を破壊したのだ」と回顧したと伝えられます。

同じ老人にその話を聞かせたところ、老人は吐いて捨てるように、「強いもんの理屈は、後からなんぼでも、ついてくる」と凄い剣幕で怒鳴り返してきました。

強い者の理屈は後からいくらでもついてくるのだ、と。

それが傷痍軍人として復員してきた老人の思いだったのでしょう。

小泉政権下の21世紀初頭、この日本を席巻したものは何であったのか、そう考えるたびに、あのときの老人の怒りが戻ってきます。

後からいくらでもついてくる「強いもんの理屈」、それが市場原理主義から臭ってくる感じです。
 
宇沢弘文内橋克人「始まっている未来 新しい経済學は可能か」(岩波書店、2009年10月第一刷、2015年2月第12刷)