アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ちんどん屋の後をついて歩いて迷子になった子供 ー 脱原発運動における私の位相はそんなところである

私は、昔の寺島町、滝田ゆうの「寺島町奇譚」で描かれた下町の貧乏長屋で、お産婆さんに取り上げられて生まれた(って明治・大正か)。子供の頃は、地面を掘ると東京大空襲で焼け死んだ人の骨が出てくると言われた原公園で、夕方になるとやってくる紙芝居が楽しみだったし、金魚屋、浅蜊・蜆売り、焼きそばと焼売売り、吉備団子売りなどが、自転車やリヤカーでやってきた。飴細工も来た。ペンチとハサミを器用に使いながら、飴細工で「怪獣マリンコング」を作るおじさんの手元を(おそらく口をぽかーんと開けて)見つめていた。白い飴のつるつるした表面のマチエールと、緑と赤の食紅の淡い色感なら、今でもはっきりと思い浮かべることが出来る。

昔のテレビは、当然白黒で、解像度も悪く、マリンコングが海の中から現れる場面だけをぼんやり覚えている。私はその頃四、五歳くらいだった。今、wikipedia で「怪獣マリンコング」を調べると、そんな話だったのかと意外に思う。Z団首領が「お匊様」だなんて、すばらしすぎる。宇津井健の「スーパージャイアンツ」、エンタツアチャコの喜劇、化け猫映画エノケンの時代劇、伴淳三郎の「二等兵物語」等々、幼稚園を中退した私は朝九時頃から始まる昔(当時としてはそんなに旧くはなかった)の日本映画を夢中になってみていた。結局、私の本質を作っているのは、その頃受けた強烈な印象だ。

下町はこどもの天国だった。私は、「お豆」で、鬼ごっこでも何でも、一人前のつもりでお姉ちゃんの後をくっついてまわった。その頃は、幼稚園くらいの幼児も小学生と一緒になって鬼ごっこでもかくれんぼでもするのだが、幼児は「お豆」扱いのため、自分では一人前のつもりであるが、つかまっても鬼になることは無く、きゃあきゃあ喜んでいれば良かったのだ。「吉展ちゃん(誘拐殺人)事件」があったのもその頃で、私は電話ボックスで「助けて」という電話をかける練習を姉たちにさせられた。当人たちは真剣だったかも知れないが、私にはおもしろい遊びだった。そういえば、ちんどん屋も毎日のように来た。子供は、ちんどん屋の後をついて歩く。私の兄は、それで迷子になって大騒ぎになったことがあるらしい。

私も都合八回ばかり、脱原発デモに参加させてもらっているが、所詮、自分などは「お豆」じゃないか、と思うことがある。長い運動経験者にとってのデモと、私のような、原発事故が起きて、ようやく何かしなければと目覚めた人間では、当然、デモの見方も、意味も、違うはずだ。その意味で、私には、右も左もない。新左翼の運動家らしき人たちが、山谷の労働者と一緒に五月頃、反原発デモに参加していたが、そのとき、私が感じたのは、彼等に対する強い共感だった。彼等の主張はストレートで、その通りだと思い、私はその後に続いた。右から考える脱原発デモを主催する人たちも、人間的に魅力のある人たちばかりだ。私が今感じるのは、よって立つ思想とか、立場とかは所詮二次的な問題に過ぎず、すべては、その人の志、人間性に尽きると言うことだ。

本当は、意識魂と悟性魂という人智学らしい観点から論じようと思っていたが、雄大な雲の流れる阿蘇の空の下で、そんなことさえ今日はどうでもいいという気になってきた。そういう話は、また別の日に。これから温泉に入って、午後は、知り合いのお世話になって、阿蘇であそぼう、なんちゃって。