9/18船橋のデモは、脱原発デモの広がりを考える上でも、自分の考えを深める上でも、得るところが多かった。しかし、私はおいしい物を後回しにするたちなので、じっくり検討したいそちらを後回しにして、9/19の歴史的な6万人デモ関連のことを先に記録しておこう。二回くらいに分けて記録するつもりだ。
大江健三郎を間近に見るのが主たる目的で、千駄ヶ谷駅に12時前に着く。よい場所を確保するつもりだった。先日のデモの打ち上げで知り合いになった「たんぽぽ舎」の方も、早く行かないと場所が埋まるよ、と云っていたので。しかし、明治公園入り口に近づくと、耳を聾するばかりの大音響があたりに響き渡っている。社民党の選挙カーだった。
私は、これは違うと思い、選挙カーの下にいた党員らしき人に音量を下げるよう苦情を云った。別に社民党を嫌っているわけではない。脱原発に動いてくれるのは大いに助かる。しかし、この脱原発デモの機会を利用して(露骨な)票の獲得行動に走るのは、エチケット違反だし、この音量は暴力的で、公共の場を私している。彼は選挙カーの中に入って、しばらくするとまた出てきた。音量を下げたという。私には、そうは聞こえなかったので、もっと下げろを云った。「イヤ、もうこれ以上は出来ない」、私は腹が立って、彼の肩に手をかけていた。「触らないで下さいよ」。私は、謝った。そして、もう一度、このデモを利用する選挙活動は不正じゃないかとだめ押しして、引き下がった。彼の肩に手をかけていた事は、彼に言われるまで、気づかなかった。実に危ない事だ。今後気をつけよう。立ち去る間際、選挙カーの暗闇の中に、福島党首らしき人物のシルエットが見えた。
公園入り口の一番よい位置には、革マル派の看板(バナーか)が大きく立ちはだかって、宣伝活動をしている。彼らがデモの主催者ではない。脱原発に人々が集まるこの機会を利用して宣伝活動を行っている事は、社民党と同じだ。
若かりし頃、町工場で、寅さんに「労働者諸君!」と、呼びかけられたことがあるのではないか、と思われるような、年配者が多い。皆さんで唄っている姿も、なんだか、うまくなじめない感じがする。一言で言えば、ダサイ。そんな事を言っては、失礼だ。しかし、若い人がその歌声に加わる事は、出来そうにない。ジェネレーションギャップ(死語か)と言うよりも、カルチャーギャップがまざまざと露呈している。既に、労組関係の旗も林立していた。一緒に行った子供もこの雰囲気にむしろ憤りを感じている。私にも正直なところ、どうしようもない違和感がある。「気」も良くない。大江健三郎どころではなくなってきた。未だ時間も早いので、代々木公園のデモに行く事に急遽方針転換する。これは、この後数万人で埋め尽くされることになる明治公園で身動きできなくなる事態を本能的に避けた結果になったようだ。
明日もデモで、体力的にきつそうなので、同日参加した代々木公園デモの報告は後日に書く。代々木公園デモの後、原宿駅まで戻ると、明治公園からのデモ隊が続々と登場し始めた。電車に乗って帰宅するつもりだったが、しばらく駅前で彼らを見物する事にした。組合旗ばかりで初めは何となく反発を感じていたが、高校の教職員組合が続々登場し始めた頃には、「教師、子供を助けてくれよ! がんばってくれよ! 教師!」等と、わけのわからぬ声援を飛ばしている自分であった。無視する「教師」たちもいたが、「おう!」と答えてくれる教師たちもいた。組合旗、組織旗を見れば、全国津々浦々から集まってきている事がわかり、これはただ事じゃないぞ、と今更ながら感じ入った。華やかな原宿で、わざわざ地方から上京してデモ行進する老若男女の胸中には、さまざまな思いが去来していたことだろう。しかし、どこか、晴れやかな気分もあったに違いなく、それは見ている私にも伝わってきた。これで終わりにしないで、全国津々浦々で、脱原発運動を活発化して欲しい。
ここで思う事は、もはや脱原発を正式に表明していない「組織」は主要宗教団体だけだと言う事である。宗教団体こそ、真っ先に脱原発を主張すべきだ。しかし、それが出来ないのは、彼らに真の信仰が無いためである。そう思われても仕方がないだろう。宗教の名を借りて、人々を支配し、収奪し、権力に取り入って、神々に背いているのだろう。末端信徒は利用されているだけなのだろう。各宗教団体の青年部は、今こそ立ち上がるときだ。自分たちの宗教・組織の、宗教改革に立ち上がるときだ。