脱原発の運動のなかでも、いわゆるツイッターデモ等の「普通の人のデモ」と、「労組系・旧左翼系のデモ」の間に分水嶺みたいなものがあって、普通デモ系は、後者が全く脱原発に無関係の問題をごっちゃにしてデモにかけていることに違和感を感じていた。デモを見ている人が、一体、何を主張するデモなのか分からなくなるではないか、というわけだ。いわゆる、シングルイシュー問題だ。私も、労組も新左翼も、どんどん脱原発デモをやってくれたらいいと思うが、シングルイシュー(single issue:単一の課題)問題を見ても、「デモ暮らしー」に関する倫理規定がそろそろ確立された方がいいだろうと思う。
さらに、今回は、杉並で、2月19日(日)に素人の乱のひとたちが中心になって、街ぐるみの、わけのわからない混沌とした脱原発デモが起こる。カラオケカーが出る、前代未聞だ。商店街とか、街のおじさん、おばさんも一緒にデモの企画を練るうちに、そういうことになったらしい。実にアナーキーだ。優等生の発想ではない。真剣に脱原発運動をしている人たちから見ると、なんてふまじめだ、何を考えているんだと言うことになるようだ。しかし、私の印象では、素人の乱は、そのまじめな運動の先を考えているような気がする。
以前にも書いたが、素人の乱の松本さんの「デモ暮らし−」の根底には、日本のコミュニティー(共同体)が完全に崩壊している、イヤ、崩壊させられた、と言う認識がある。確かに、村や町などのコミュニティーが、もはや、われわれの血の通った第二の身体では無く、原発補助金を受給するための下等な器官に成り下がってしまった現実が、原発を可能にしてきたと言う見方もできるはずだ。2/19(日)開催予定の脱原発杉並デモの在り方を、そう言う眼で見直してみる。すると、そもそも、こんなデモができるような皆が自由な心をもつ市町村であったなら、原発の補助金をもらって金持ちになることが仕合わせだ、という価値観とは、別の仕合わせを皆でつかめただろうと、思わざるを得ないのだ。日本の市町村が、皆、この杉並区のようであったなら、もう、原発を建てることは不可能だろう。そう言う意味で、このデモの戦略は、実に未来的なものだ。単なる、運動に伴うストイシズムの放棄のような、消極的なものでは無いのだ。
学校優等生の発想が今までの日本を支えてきたが、以前にも書いたように、彼らの文化は完全に崩壊し、その使命も終わってしまった。これからは、ある意味で、無軌道で、混沌とした、新しい価値観へ向けての暗中模索が続く。そこでのキーワードは、結局、「自由」の一語に尽きる。新左翼も、熱心な運動家も、東京のふつうのおじさん、おばさんのアナーキーさに比べれば、旧時代の優等生文化の踏襲者に過ぎない。世の中が変わるときとは、きっと、そんなものなのだ。