アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

意識魂の時代の人智学協会 ー 人智学の土着化について 

このところ、朝、目覚めたときに、自分にとって大切に思える考えが心に浮かぶことが多い。メモしたり、書き留めたりする習慣にしよう。これはアストラル界(=星界)から地球へ、肉体へ帰還したばかりの自分へのメッセージだと思うのだ。私にとっての霊告日記である。前日に気になっていたことへの回答である場合も多い。
昨日、ツイッターで、人智学協会邦域協会理事という方からフォローしていただいた。私ももちろん、フォローし返した。プロフィールに、人智学協会の理事をしています。とある。以下は、このことがきっかけになって出てきた考えであるが、もちろん、この方への個人的な攻撃ではない。読んでいただければ分かると思うが、一般的組織論である。
今後の人智学の発展がどのように進むべきかという問いでもある。
以前から気にかかっていたが、自分では言わずもがな、野暮に属する項目でもある。
しかし、この方のフォローがきっかけで、そうは云ってもいられない現実があることに気づかされた。特に、若い、人智学をこれから学んでみたいという方にとっての、躓きの石がここにあるように思ったのである。

人々が力を合わせて同じ目的に向かって力を結集するためには、組織化するという一種の知恵・方便がある。特に権力と闘ったり、政治的な影響力を持つために、それは必要なことと考えるのは、普通かも知れない。そのなかで、リーダーが生まれ、役割分担が発生し、或る種の形態が形成されて行くのは、必然的である。それが、組織の初期の段階であろう。しかし、その組織が発展し、固定化し、或る種の社会的な権威を持つようになってからが問題だ。組織の創業者達にとって、その組織は若く、生き生きとしたものであったかも知れない。しかし、既に完成した後から入ってきた者たちにとっての組織とは何か。

例えば、宗教団体。様々な奉仕活動の功徳を積んで、仲間に認められることで、その組織のヒエラルキーの階段を上るという指向性が出てくる。組織に生きることが、初期の目的を離れ、会社員が、課長、部長、社長という役職の階梯を上昇する生き方に相似な傾向が当たり前のこととして認められるようになる。私は、それは、実に下らないと思うのである。

恐るべき形骸化が起こる。そこに、自分の思考があるか。創造性があるか。ただ、既に存在する鋳型に自分を流し込んで、重たい鋳物のような人生が完成するだけだ。それは、まさしく、悟性魂的な生き方である。人智学協会が目指すものは、当然、そうであっては、ならない。ゲーテアヌムがあることは助かる。すべての人智学徒がシュタイナーの初志に還るふるさとが存在していることは素晴らしい。しかし、ゲーテアヌムはもちろん、コミンテルンとは異なるだろう。世界の人智学を一元化するのが目的ではないだろう。むしろ、人智学は、土着化せねばならないと考える。自分たちの民族霊達との共同を大切にしなければならないと考える。その上での、国際主義である。日本で、仏教は土着化に成功し、われわれの血肉となった。それはもはや、外国の宗教ではなく、われわれの仏教だ。一方で、キリスト教が根付かない背景には、キリスト教会の権威がもつ、中央集権的国際主義が個々の民族性を否定する強い傾向があり、歴史的にも結果的に植民地主義の尖兵であったことなど、土着化・血肉化の対極にあったことが指摘できよう。人智学が、キリスト教のその悪しき伝統を踏まえる限り、日本に根付くことは無いであろう。私たちにできることは、その意味で、仏教の先達のように、人類の宝である人智学を日本に土着化するための努力であり、決して形骸化した組織と偽りの国際主義に毒された権威主義ではないはずだ。

人智学にプロはいない。留学したから、人智学に通暁できるかと云えば、そんな生やさしいものではないと思う。それは、あらゆる技芸・学問にも通じる事だ。自分の努力と迷い、それが全てだ。そして、良き仲間との出会い。そこにしか、絶えず更新される、新しい、生命的な営みは存在しない。自分をどろどろに溶かして鋳型に流し込み、重々しい鋳物としての人格が完成するとすれば、それはなんか違うぞ!

追記:日本のキリスト教にも、かつて土着化の契機があったはずだが、それを逃してしまった。それについては、また機会をあらためて考えたいが、結局、キリスト教勢力が神智学的教養を活かすことができなかったことにも一因があるのではないか。キリスト教一神教的排他性を克服するあらゆる教義が歴史的に異端として排斥され続けてきた結果であろう。