アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

デモのエーテル体 − お祭りデモの意味について

私の脱原発デモ参加も、8/27のツイッターデモで七回目になり、自分なりの参加のスタイルが定まりつつある。おそらく、それは私だけの事ではない。いつの間にか顔を覚えてしまったリピーターの人たちを見ていても、そう思う。例えば、テラベクレル和尚、割烹着三人美人、パーカッション部隊、防護服青年、立体刺繍バナーの美少女たち、その他その他、枚挙に暇がない。しかし、そこで、デモの趣旨とその在り方の乖離について、考え込む人も出てくる。特に、ツイッター等で、脱原発デモに関する否定的な言葉の拡散もあり、その場合マニュアルがあるのかどうかは知らないが、敏感な若い人が傷つくような論理を展開する巧妙なケースもある。

つまり、デモにまつわるある種の祝祭性が、後ろめたいのである。自分一人で、原発の今後、子供たち、自分の大切な人たちの被曝の問題等、うつうつと考えている気分が、デモに出る事で、発散され、元気になって帰宅する。あるいは打ち上げで、ビールを飲み、歓談し、友人も出来て上機嫌になる。しかし、そんな事で終わってしまってはいけないと、一人に戻ったとき反省し、後ろめたい気持ちになる。いい人ほど、この「問題」に矛盾を感じ、なんだかデモに出る事自体が悪い事ではないかという気分にすら陥ってしまうかも知れない。

一方で、「右から考える脱原発デモ」の場合、「われわれの真摯な主張を訴えるためには、音曲を伴うお祭りめいたスタイルはふさわしく無い」という考え方で、明確な主張をもった力強いデモが実現され、こちらも大きな感銘を受けた。しかし、もちろん、「音楽デモ」と「右からデモ」の両者はお互いを否定するわけではなく、お互いの関係者がお互いのデモに参加し合っているうるわしい関係もある。

そんなことを漠然と考えていた私であったが、今朝、目覚め際に、デモのエーテル体という言葉が頭に浮かび、何かが分かったような気がしてきた。シュタイナーによる人智学的世界観の展開において、東洋で云う「気」の身体論を西欧的に徹底化した概念とも云える「エーテル体」が大きな役割を果たす。人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我から成り立ち、肉体を物質界(鉱物界)と、エーテル体を植物界と、アストラル体を動物界と共有すると言う。動物には、肉体、エーテル体、アストラル体はあるが、自我は未発達である。植物には物質体、エーテル体がある。鉱物・物質にはそれらがない。意識は人間において最も明るいが、肉体に局在化している。動物、植物、鉱物と体的ヒエラルキーを下るにしたがって、意識は暗くなっていくが、その分、広がりを持つようになる。鉱物にも意識はある。それは人間が考えるような明るい意識とはほど遠いが、その分だけ、宇宙的に広大な広がりをもつ意識であるという。地球にもエーテル体がある。つまり、地球も生きている。

人々が真摯な目的をもって集うとき、そこにはその集団のエーテル体が形成されると、以前、T先生がおっしゃったことがある。その集団が、神々でさえも仲間に入りたいと思えるような、うらやましい友愛に満ちているとき、そのエーテル体に、高位の霊的存在が降りると言う。それを大天使と呼ぼうと、民族霊と呼ぼうと、菩薩と呼ぼうと、名称はどうでもいい。ここに述べたような形で言語化されてはいないかも知れないが、かつて人類がこのような知識を共有していた時代があり、それが、各民族・種族に特有の祭礼や儀式の根拠だったのではないか。私も今まで意識する事が出来なかったが、そういう意味では「お祭り騒ぎ」というデモ批判は正しかったのだ。脱原発デモで感じられる高揚感は、自分たちが実はとても神聖な義務を果たしているということへの祝福だったのだ。そう考えると、脱原発デモが、音曲、踊り、仮装、等々、非日常的表現に満ちていることの意味の謎が氷解する。さらに、デモのエーテル体の広がりと共有ということを考えると、デモ参加者と警察官が言葉には出さないがある種の共感を感じ合ったり、道行く人々がデモ隊に熱いエールを送ってきたりすることは、当然の事態なのであった。

追記:8/27ツイッターデモの写真は、整理がつき次第、順次アップする予定です。