アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「イデオロギーとしてのフリーメーソン:戦争とオカルティズム運動」について書く前に『インペリアル―国家論・君主論―』の断片的感想を

タイトルだけ入れてみたが、今日は、本当にふらふらしてだめな感じがする。やはりこれは、今度にしようかと思ったが、ふらふらの原因は、ズボンのベルトがきつかったせいだとわかり、ベルトを緩めた結果、ある程度書くことが出来た(私の馬鹿!)。

初めに記録の意味で、以下を貼り付けしておこう。
代官山「山羊に、聞く?」という、本来、私には一生縁がなかったであろう、おしゃれな街のカフェでの映画の上映とトーク

______以下貼り付け開始________________________

〇10/10(祝) 完成披露試写『インペリアル―国家論・君主論―』
OPEN/ START:16:00/ 17:00
第1部 17時〜 『インペリアル―国家論・君主論―』上映
第2部 18時半〜 トークセッション 
トークセッション
出演:鈴木邦男,白井聡,金子遊,
司会:白井基夫
一般予約1500円 当日1700円 + ドリンク
学生予約1300円 当日1500円 + ドリンク
※サンキュー3日間通し券 3900円あり(予約のみ)
(映画情報)
『インペリアル―国家論・君主論―』 2011/75分/ドキュメンタリー/DV
左翼VS右翼、全共闘とポスト新左翼、日本のナショナリズム三島由紀夫の自殺とは? 天皇制は存続か廃止か? 日本を代表する思想家や芸術家がくり広げる、新感覚のディスカッション・ドキュメンタリー。
出演:鈴木邦男康芳夫正津勉、北村肇ほか 
監督:金子遊 
撮影:岩井秀世 
音楽:藤野智香 CGデザイン:小川梨乃
===プロフィール=======
【金子遊】
映像作家。実験映像とドキュメンタリーの実作者/批評家。『ぬたばまの宇宙の闇に』(08)で奈良前衛映画祭NAC賞受賞。劇場公開作にドキュメンタリー映画の『ベオグラード1999』(09)がある。「批評の奪還 松田政男論」で映画芸術評論賞・佳作受賞。「弧状の島々 ソクーロフネフスキー」で三田文学新人賞(評論部門)受賞。編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』がある。

____________以上貼り付け終了______________

私は、なぜか、恵比寿と思い違いをしていて、恵比寿駅で、お店に電話して、その間違いに気づいた。前日に参加した「脱原発ドラムデモ」が恵比寿出発で、その時に、思い違いをしたままだったようだ。大幅に遅刻して到着。

思想的討論が延々と続き、いつかそれがドキュメンタリー的な外部空間につながるのだろうと漠然と予想しながら見ていたら、討論は突然終わり、映画も終わってしまった。途中から見たせいもあるが、誰が誰やら、よく分からない。顔の大きい迫力のある白髪老人が、康芳夫だと見当がつく。だが、その顔はあからさまな悪相で、赤ん坊の感受性をもつ私には正視に耐えなかった。怖すぎた。トークショウの録画なのだが、人によってはマイクの使い方が下手で、言葉が不明瞭になり、何を言っているのかよく分からない。

宮台真司三島由紀夫について語っていた。
デモで見たときよりも若い。わずか半年の間に随分老けたようだ。
三島を近代的合理主義者と断じていた。
三島は高度な知性を持った人間であることは確かだが、啓蒙主義的な意味での合理主義者とはとうてい言えないだろう。
啓蒙(理性)に対するロマン主義(感性)の系譜の人である。
もちろん以下は正確な再現では無く、私の解釈に過ぎない。

宮台氏は、天皇制を占領軍が「ガバナンス(日本語使えよ!統治の意)」のツール(道具)として扱ったと述べたようだ。そして、経綸(政治・統治)には、フィクション(嘘と言ったかも知れない)が必要であり、戦後の象徴天皇制は統治のための道具として機能するフィクションとして捉えたようだ。ここで、私が引っかかったのは、宮台氏が、それを、戦後の天皇制に限らず、あらゆる政治体制における一般的な原理として受け取れるように述べた点だった。つまり、立憲君主制であれ、民主主義であれ、社会主義であれ、あらゆる統治機能をもつ国家体制は、嘘の上に成り立ち、その嘘をいかに巧妙に成立させるかが問題なのである。宮台氏の虚無的エリート主義があふれ出た発言だった。一般国民はフィクションを信じ、統治者がフィクションをフィクションと知りながら、体制維持のための「道具」として維持するのが人間社会であったし、今後もそうでしかない・・・。

このような考え方の人が、我が国の若い、読書し、ものを考えるような人たちに一定の影響力を及ぼしているという事実が、私を憤慨させた。もし、この場に三島がいたら、彼を殴り飛ばしていたのではないか、そんな幻想を抱いた。

彼は菅総理のブレーンの一人だったと言う。菅総理原発事故に対する矛盾した無策の数々は、政治的ニヒリズムの極致でもあった。類は友を呼ぶのか、あるいは、ニヒリズムは感染するのだろうか。

ここで話がすこし飛ぶ。私は昨日、以下の本を読んで、今まで深い霧のなかに見え隠れしてその存在も定かではなかった古城が、忽然とその姿を目前に現したような、そんな気がしたものである。

1945年日本占領―フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略

1945年日本占領―フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略

これは、従来のフリーメーソン関係書籍とは完全に一線を画す画期的な、今時の出版事情に照らし合わせれば非常に贅沢な著作で、国内のみならず、アメリカ、ヨーロッパ各地を取材して発掘した一次資料と関係者の証言に基づいた報告書である。著者の解釈と発掘された資料の報告とは明瞭に分別可能なので、戦後日本の成立に疑問を抱く私のような人間にも得るものが多かった。そのなかで、A級戦犯の処刑がよりにもよって、今上天皇の誕生日に行われ、その遺骨も遺族に渡されず、どこに処分されたのか、明らかにされなかった話が出てくる。このエピソードは本書のエピローグに使われるので、詳しく書いてしまうとこれから読むつもりの方の興を削ぐ恐れがあるので、とばし読みして欲しいが、著者の調査によると、遺骨は、横浜のフリーメーソンロッジのすぐ近傍にある、現在の外人専用スポーツクラブの駐車場の下にある可能性が高いと言う。そこは当時、墓地として使われていたそうだ。

私はこのエピソードの概略を知っていのだが、それを一体どこで知ったのか、昨日は思い出せなかった。しかし、今、このイヴェントの感想を書きながら、これこそ、この映画の中で、一水会の木村代表が語っていたことだったと思い出した。木村代表は、遺骨は粉々に砕かれて、東京湾に捨てられたらしい、と述べていたが、本書でもその「言い伝え」は紹介されている。

強力な民族主義国家との戦争が終わり、その指導者を処刑する。ここまでは、どこの戦争でもあり得るだろう。しかし、その遺骸を陵辱し、永久に辱めると言うことが、文明国家の所行として許されるだろうか。理性的な所行と云いうるだろうか。ある種の前近代性、呪術性、否、古代的感性すら匂わないだろうか。ここに現在も全く変わらない、アメリカ合衆国の隠れた本質が現れていると、私は考える。911の首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンが殺害され、その遺骸が、第三者による客観的な同定作業も無いままに、海に投棄され、闇に葬られた事実も記憶に新しい。

従来、国内で得られる文献で、フリーメーソンに関して信頼に足るものは多くはなかったと思う。そのオカルト的側面を扱うことはたやすくはないにせよ、英米帝国主義イデオロギーとして隠然たる威力を発揮していたことは事実で、チャーチルも、ルーズベルトも、もちろんマッカーサーもメイソンであった。それに真っ向から対抗する勢力はヴァチカン(ローマ・カソリック)である。そこに新興勢力としての共産主義が現れる。そのなかで、日独伊は、強いて云えば、ロマン主義帝国主義国家であった。フリーメイソンリーフリーメイソン主義)と共産主義国際主義を標榜し、ヴァチカンが世界支配を狙うなかで、ロマン主義帝国主義国としての日独伊は民族主義を標榜していた、せざるを得なかった。ここで、私は、それぞれのどれが正しく、どれが悪いか、そういうことを問題にしようとは思わない。ただ、自分が、そのなかでどの霊統に連なり、今を生きているのか、それを問題にしたいだけなのだ。人智学的に言えば、自分自身のカルマ、民族のカルマの問題でもある。

これは蛇足であるが、1900年代初頭の新興都市ハリウッドにおいて、市長を初めとするあらゆる支配層人士のすべてがメーソンであり、まだ建築物もまばらな町並みにひときわ偉容を誇ったのが、メーソンのロッジであったと言う。ハリウッド映画がアメリカによる世界文化支配に果たした決定的な役割を考えると、この事実の意味するところは無視し得ない。更に、戦後、ハリウッドも襲ったレッド・パージの嵐にも、共産主義に異常な敵意を示したメーソンの人脈が果たした役割は少なくないと推測している。

この項目の続きは、また書き続ける予定です。