靈:・・・従ってわれわれは当面空間そのものだけを問題にし、単なる意識からの空間の成立を明らかにしさえすればよいであろう。
靈:物は代理人を通じて汝に現れるのではない。現に在り、また在りうる物を汝は直接的に意識するのである。汝が意識するもの以外の他のいかなる物も存在せぬ。汝自身がその物なのだ。汝自身が汝の最奥の根拠、すなわち汝の有限性によって汝自身の前に立てられ、汝自身から外へ投げ出されているのだ。
こうして汝が汝の外に見るところのもの一切は常に汝自身なのだ。この意識を直観と呼んだのは極めて適切なことである。あらゆる意識において余は余自身を直観するのである。なんとなれば余は自我だからである。主観的なもの、意識するものにとって該意識は直観である。
また客観的なもの、直観され意識されたものも余自身である、直観するものでもある同一の自我である、 ー ただまさに客観的である、主観的なものの前に浮かんでいるのである。この点においてこの意識は ー 余が直観するところのものを活動的に彼方に観ることである、余自身から余自身を取り出して観ることである。
余に帰属するところの唯一の行為様式によって、すなわち観ることによって、余自身から余自身を連れ出すことである。余は生ける見る作用である。余は見るー意識をー余の見る作用を見るー意識されたものを。
それゆえにこの物も汝の虗藭の目には完全に見透されている。なぜならそれは汝の虗藭自身だからである。
諸物の可能的諸形式およびこれら諸形式の諸関係をあらゆる知覚に先立って汝は分類し、限界づけ、限定する。何も不思議なことではない。これらのことによって汝は常にただ汝が確実に知っている汝の知識自身を限界づけ限定しているのである。だからこそ物についての知識が可能になるのだ。
それは物のうちに存するものではない、また物から流れ出るものではない、それは汝自身から流れ出るのである、それは汝自身のうちに存するのである。それは汝自身の本質なのである。
【訳者注より】
「こうして汝が汝の外に見るところのもの一切は常に汝自身なのだ」
「外」を持つ汝=「限り」をもつ汝。
後者の汝=無限的な汝。
「有限的な汝が有限的な汝の外に見るところもの一切は常に無限的な汝である」。
これは「全知識學」の第三原則の変形にほかならない。
第三原則:自我は自我の内に可分的自我に対して可分的非我を反対定立する。
ここで、
「自我」=「無限的自我」
「可分的自我」=「有限的自我」
「可分的非我」=「無限的自我」によって「有限的自我」の外に、しかし無限的自我のうちに、定立された「相対的自我」。
「相対的非我」=「有限的自我」に相対してはまさに「非我」であるが、「無限的自我」にとっては「相対的自我」と同様にやはり「自我」である。
「無限的自我」=一切であり、それにとって「外」は存在しない。
フィヒテ・量義治訳「人間の使命」第二巻 知識、第二章 対象意識の成立過程
(中公バックス世界の名著「フィヒテ・シェリング」)