アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ナグ・ハマディ文書におけるグノーシス

ナグ・ハマディ文書の大半はグノーシス主義文書である。もちろん、一口に「グノーシス主義」と言っても、西暦紀元の前後のユダヤ教の周縁に登場したものから始まって、三世紀以降に隆盛を見るマニ教まで、複雑多岐にわたる。ナグ・ハマディ文書には、すでにそのマニ教の影響も及んでいる。

しかし、大半のナグ・ハマディ文書のグノーシス主義は、構造的にマニ教とは区別されるというのが研究上の定説である。そのナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス文書それ自体もまた多岐にわたるのであるが、ここで共通の深層構造をあえて理念型的に取り出せば、次のようになる。

もろもろの神的存在に充満する光りの世界の内部に、一つの破れが発生する。やがてそれが原因となって、「闇」の領域の中に造物藭が生成する。彼によって目に見える宇宙万物が創造され、その中に人間が「心魂」と肉体からなるものとして造られる。

その心魂的および肉体的人間の中に、神的な光の断片が宿ることとなるが、それは自分の内部に発生した破れを修復するために、光りの勢力が造物神の知らぬ間に、それを注入したことによる。

個々人の救済はこのことを認識して、それにふさわしく生き、肉体の死後、造物神の支配する領域を突破して、その彼方の光りの世界に回帰することにある。
 
・・他方、ナグ・ハマディ文書を取り巻いていた古代末期のヘレニズム文化圏では、神秘体験を重要視する神秘主義が多様に展開し、早くから宗教的・思想的に大きなうねりとなっていたのである。思いつくだけでも、デュオニュッソス藭、イシスとサラピス藭、アドーニス藭、ミトラ藭崇拝などが挙げられる。

いずれも一定の儀礼を伴った宗教的神秘主義の結社によって担われていた。終始、ヘルメス藭を人間の魂の導師として登場させるために、『ヘルメス文書』と通称される文書群についても同じことが言える。

さらに、同じヘレニズム期のプラトン主義はプロティノス後(後205ー269/70年)を境にして、それ以前の中期プラトン主義と以後の新プラトン主義に区分されるのが常であるが、そのどちらにおいても神秘主義への傾斜は不断に深まる一方であった。

その結果は、いわば哲学的神秘主義と呼ぶべき立場であった。・・・神話論的・思弁的思考から哲学的・神秘主義的思考と体験への変容は、グノーシス主義研究が避けて通ることのできない、きわめて重要な問題である。 

ナグ・ハマディ文書チャコス文書「グノーシスの変容」大貫隆、序論・神話から神秘主義へ(岩波書店、2010年12月第一刷)