アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

フィヒテ的自我「自我には外が無い」

私:物の性質は私自身の状態の感覚に由来し、物が充たしている空間は直観に由来する。思考によって二つのものは結合される。前者は後者へ運び移されるのである。

・・・すなわち、本来私の状態にすぎないものが空間のうちに定立されることによって私にとって物の性質になるのである。しかしそれは空間のうちに直観によってではなく思考によって、定立されるのである。

しかしながらこの働きのうちには思考による案出や創作は含まれていない。含まれているのはただ感覚と直観によって思考から独立に与えられるものの限定のみである。

靈:では汝を触発するものの表象はどんな種類の表象なのか。

私:無論、思考である。それも先に説明された根拠律に基づく思考である。・・・対象の意識は私の自己意識に二通りの仕方でいわば付着しているのだ。一つは直観によって、いま一つは根拠律に基づく思考によって。対象は、奇異に見えるけれども、二つのものなのである。すなわち、私の意識の直接的な客観であるとともに推理されたものなのである。

靈:汝は対象を考え出す、と余は言ったが、対象は思考物である限り、それはただ汝の思考の産物なのか。

私:もちろん。なんとなれば上述のことからそうなるからである。

靈:それではこの思考された対象、根拠律に従って推理されたこの対象は何なのか。

私:私の外なる一つの力である。

靈:それを汝は感覚することもなければ直観することもないのか。

私:決してない。私はそれを決して直接的に把握するのではなくて、ただそれの現れを通じて把握するのであるということは常に十分意識しているところである。もっとも私はそれに対して私から獨立な現存在を認めはするけれども。私は触発される、と私は考える。従ってやはり私を触発する何かが存在しなければならない。

靈:従って確かに直観されたものと思考された物とは二つの大変異なった物である。汝の前に直接的に浮かんでおり、かつ空間に拡がっているものは直観されたものである。そのうちなる内的な力は決して汝の前に浮かばず、その現存在を汝はただ推理によって主張するだけであるが、この力は思考された物である。

  ☆

私:・・・そして持続するものは見つかった。それは力そのものである。この力はあらゆる交替にもかかわらず永遠に同一のままである。この力こそ諸性質を帯び担うところのものである。

  ☆

私:・・・すなわち自我自体と連関している物自体を思考しようとするあらゆる試みは、全くわれわれ自身の思考に対する無知であり、われわれはいかなる思想もそれを ーまさに思考することなしには持ち得ない、ということを奇妙にも忘れているのである。・・・かの物自体は ー壮大な思想だと言われているが、しかし誰もそれを思考しようとはしない思想なのである。

【譯者注】
「知識學への第一序論」で論じられているように、「観念論」とは「物の自立性」を否定して「自我の自立性」を主張する立場であり、「独断論」とは逆に「自我の自立性」を否定して「物の自立性」を主張する立場である。

言いかえればカント哲学が残した「物自体」を認める立場が独断論であり、これを認めない立場が観念論である。「物自体」を「自我」のうちに解消した知識学をもってフィヒテはカント哲学の徹底であると考えた。

フィヒテ的自我は一切であり、その外には何ものも存しないのである。否、そもそも外が無いのである。

フィヒテ・量義治訳「人間の使命」第二巻 知識、第二章 対象意識の成立過程
(中公バックス世界の名著「フィヒテシェリング」)