個人の主観性を原理とし、個人のみちびきを仕事とするアテネ市民たらんとしたソクラテスは、その人格からして全アテネ市民を、ー多数の市民や有力な多数民のみならず、アテネ国民の精神を、ー相手とせざるを得なかった。
アテネ国民の精神そのもの、その体制、その全存在は、共同体の意識ないし宗教ないし絶対的な確固たる秩序に依存していました。ところがソクラテスは真偽の判定を内面的意識の決断にゆだねる。かれはこの原理をおしえ、息づかせようとした。
とすれば、アテネ国民の正義や真理と対立せざるをえず、告訴されて当然だったのです。
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(a)告訴は二つの点からなっています。(α)ソクラテスはアテネ国民の認める神をみとめず、ふるい神々をすててあたらしい神々をもちこんだ。(β)かれは青年を誘惑した。
訴状(α)はダイモニオンと関連します。告訴とそれにたいするソクラテスの弁明は以下でくわしく見ていきますが、史料としてはクセノフォンに告訴と弁明の両方が、プラトンに弁明が採録されています。
ただ、私たちはここでは、立派な人格者が無実の罪を着せられた、という立場をとるわけにはいかない。この告訴ではアテネの民族精神が、自分を破滅に導く原理に対抗している、というのが実相です。
(長谷川宏訳)
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最後の二行にヘーゲルの真骨頂があらわれている。やはりヘーゲルから学ばなければ。シュタイナーの人智学の構造とヘーゲル哲学の骨子にも、未発掘の照応関係があるのではないかという予感がしています。