アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル「哲学史講義」 B.ソクラテスの哲学 二.善の原理 その4

さて、善が思考の目指す目的ですが、善をめざそうとすると、さまざまな義務が衝突する。国家の掟や慣習や生活の現実によって決着のつくこともありますが、ソクラテスの場合のように、知が自由に自立して正義や善の内容を決めるようになると、共同体の決まりとはべつに、人間が独立でなにをなすべきかを決断する、つまり、主体が決断者となるという事態が生じます。ギリシャ的自由の立場にとってなにが本質的なことなのかを、このような決断の観点からとらえなければなりません。

ギリシャ的精神の立場は、道徳的な面から見れば、素朴に共同体秩序のうちに生きる立場ということができます。人間はまだ、自分のうちへと反省の目を向け、自発的にものごとを決定するような心構えを持たず、ましてや、良心と名付けられるようなものは存在しなかった。

掟や慣習などがただあるというだけではなく、確固とした大きな存在としてそびえ、それが生活の基礎をなす伝統として、それと意識されることのないまま独自に発展していたのです。

こうして、共同体の掟は、神々の承認した神聖な掟だと見なされた。

なにかを決断するさいにも、ギリシャ人は掟をよりどころとしたのですが、他方、私的行為においても公的行為においても、みずから決断をくださねばならない場合があります。しかしそのとき、ギリシャ人はまだ主体の意思に基づいて決断することは無かった。

将軍も国民も、国家においてなにが最善なのかの決断をわが身にひきうけることはなかったし、個人が家政上の決断を身にひきうけることも無かった。決断に関してはギリシャ人は神託をたよりにし、神託にうかがいをたてたのです。(神託が決断主体でした。)

ローマ人は鳥の飛び方をたよりとしましたが、いけにけの動物の観察や預言者への相談も、神託にたよる行為にかぞえることができます。戦闘をまじえるにあたって将軍がいけにえの動物のはらわたを見て決断を下したことは、クセノフォンの「ペルシャ遠征記」にしばしば見えるところだし、ヘロドトスの「歷史」によると、パウサニアスは戦闘命令を発するか否かで丸一日くるしんだといいます。

肝心の点は、ギリシャ人が決断者ではなく、主体が決断を引き受けず、外部の他者に決定をゆだねたことで、ーこのように、いたるちょころで神託が必要だったのは、人間が自主的に決断をくだせるほど、自分の内面を独立した自由なものだと認識していなかったからで、これは、主観的自由の欠如をものがたるものです。

この自由は、まさしくわたしたちが今日いうところの自由で、ギリシャ人にはまだその自由がなかったのです。(この点はプラトンの「国家」の項で詳説。)自分の行為に自分で責任をとること、つまり、明晰な知にもとづいて決断をくだし、それを最終の決断と見なすことは、近代の思想原理です。ギリシャ人はこうした無限の自由を意識することはなかったのです。

長谷川宏訳)

 ☆

シュタイナーはヤハウェを自我の神としてとらえる。”一神教”の意味はそこにこそあるはずだ。自我こそが一である。そう考えると、ヘーゲルが描写する、神々にすべての決断を委ねる”自我神ヤハウェ”以前のギリシャ多神教世界の在り方にも、得心できるものがある。後年、基督教がギリシャに広まる素地としての”ソクラテス的なるもの”を考える余地が生じてきた。さらに、多神教世界に生きてきたわれわれ日本人にとっての自我とは何かという問題にも行き当たる。古代ギリシャに親和的なるものが、今も、日本人にとっての”無意識のOS(operation system)"(注)としての神道には生きているのだろうか。それが日本人の精神的集合性とどのように関わるのだろうか。

(注)
Nakamichi51@神道学者 ‏@genshin01
神道はコンピューターでいうとOSのような存在のところがあります。この喩えを発展させると、現在は年々更新されて最新版は「SHINTOUS 2012」。そしてみんなの心にSHINTOUSはインストールされていて、古いバージョンを使っている人もいる…みたいな感じ。