アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル”哲学史講義” A.プラトンの哲学  三.精神の哲学 「法律としてと同時に個別性としてあらわれるべき絶対的に普遍的な思想」

財産や家族生活の排除、
階層の自由選択の廃止、
など、
主観的自由の原理にかかわるすべての規則によって、
プラトンはにくしみやいさかいなどの感情すべてを封じこめたと思っています。
個々人が自分の目的や自分の好みを主張し、
個人的な利害を共同体の精神の上におきはじめたことからギリシャ生活の堕落が生じたことを、
プラトンは良く承知していました。

しかし、
キリスト教において主観的自由の原理が必要不可欠なものとしてとらえられ、
ー 個人の魂が絶対的な目的と見なされ、
精神の概念に欠くことのできないものとして世界にみちびきいれられるのを見たわたしたちは、
プラトンの国家制度が、
共同体組織の高度な要求を満たしえぬ次元のひくいものだと考えざるをえません。

プラトンは個人の確信や知や意思や決定をみとめず、
それらを自分の国家理念と統一できなかった。
が、
正義の立場からすれば、
個人にも正当な権利をみとめ、
高度な次元で全体に組み入れ、
全体と調和させねばなりません。

プラトンの原理の対極をなすのが個人の意識的な自由意思の原理で、
これはのちの時代にとくにルソーが強調するものです。
個人そのものの恣意、
個人の言論こそが大切だとする考えで、
ここでは原理が反対の極にはしりすぎてまったく一面的なものになっている。

このような恣意や教養と対立するものとして、
絶対的に普遍的な思想があらわれねばなりません。
それは賢明な統治者や公共心としてあらわれるのではなく、
法律として、
と同時に、
わたしたちの本質ないし思想として、
つまり、
主観性ないし個別性としてもあらわれねばならない。

人間は理性的なものを自分のうちからうみだしますが、
現実の世界ではそれはさしせまった必要や、
偶然の機会やきっかけをもとにうみだされるので、
そこに利害や感情がともなうのは当然です。

長谷川宏ヘーゲル哲学史講義・中” 河出書房新社1994年2月20日再版)