アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル「哲學史講義 中巻」B.アリストテレスの哲学 一.形而上学

かれの定義する二つの主要な形態を見る必要がある。
(α)可能性(デュナミス、ポテンティア)の形態と、
(β)現実体(エネルゲイア、アクトゥス)の形態、
ー目的をふくみ、
目的の実現された状態ー 
の二つです。

実体の核心をなすのは、
それがたんに物質であるというにとどまらないことです。
すべての存在は物質をふくみ、
すべての変化は、
変化がそこに生じる、
その土台となる物質を必要としますが、
しかし、
物質そのものは能力ないし可能性(デュナミス)にすぎず、 
ー現実体ではない。

現実体は形であり、
物質が本当に存在するには形ないし活動が必要です。

可能性(デュナミス)とはアリストテレスの場合、
力を意味するのではなく(力はむしろ形の不完全な形態です)、
むしろ可能性や能力(不特定の可能性ではなく)を意味し、
現実性(エネルゲイア)は純粋に自発的な効力を意味します。
この二分法は中世全体をつうじて大きな力をもちました。

可能性(デュナミス)はアリストテレスでは客観的な素質や素地を、
またのちには、
抽象的な一般性や理念を意味しますが、
理念といってもいまだ潜在的なものにすぎない。
現実性(エネルゲイア)とよばれる形こそが、
潜在状態にある自己を否定して現実的な自己を実現する活動です。

物質は潜在的なものにすぎない。
というのも、
物質はあらゆる形をとりうるけれども、
それ自身は形をうみだす原理ではないからです。

こうして、
本質的で絶対的な実体は、
可能性と現実性、
ないし、
物質と形を不可分に統一したものとなる。
物質は可能性にすぎず、
形を得て物質は現実のものとなるが、
他方、
形は可能性としての物質なしには存在しない。

・・・もっと具体的にいうと、
現実性(エネルゲイア)が主観的なもの、
可能性が客観的なものといえるので、
いうまでもなく、
真に客観的なものは真に主観的なものと同様、
現実性と可能性の統一体です。

感覚的実体の場合には、
活動力と物質とは完全に区別されるのにたいして、
知性(ヌース)はその両面をそなえ、
知性(ヌース)の内容そのものが実現されるのですが、
にもかかわらず、
知性は物質を必要とする。
知性は物質と一体化しているのではなく、
物質を前提としているのです。

普通にアリストテレスの現実体とされるものが、
ここ(高度な実体)では完成体としてもあらわれている。

完成体とは現実体とおなじ概念内容をもつものですが、
活動が目的を視野におさめた自由な活動、
いいかえれば、
自分で目的を設定し、
その目的を明確にしつつ実現していく活動であるかぎりで、
実現されたものを完成体ということができる。

魂とはその本質からして完成体であり、
理性(ロゴス)であって、
ー自主的自発的に、
ものごとの一般的なありかたをあきらかにしていくものです。

最高度の実体は、
可能性(デュナミス)と現実性(エネルゲイア)と完成体(エンテレケイア)とが統一されたものです。真性にして完全無欠の絶対的な実体を、
アリストテレスは、
不動にして永遠なもの、
しかし同時に、
ものを動かす純粋な活動力、
と定義しています。

・・・スコラ学者たちはこの概念を藭の定義に応用して、
藭は純粋な活動力であり、
完全無欠なものであり、
いかなる材料も必要としない、
といいましたが、
これは理にかなったことで、
ー実際、
観念論としてこれ以上のものはない。

べつのいいかたをすれば、
藭はその可能性がそのまま現実性であるような、
本質が活動そのものであり、
可能性と現実性が不可分であるような、
そういう実体です。
そこでは可能性と現実の形とが区別されず、
実体は自分の使命とする内容を、
自分自身を、
つくりだすのです。

これはプラトンの理念(イデア)とちがうところで、
・・プラトンの理念が不動の、
完全無欠な存在とされるとき、
「そこには活動力や実現力が想定されず、運動がない」・・。
・・プラトンの静止した理念や数はなにものも実現しないが、
絶対的なものは静止していながら、
同時に絶対的な活動なのです。

現実体が完成体とも名づけられるのは、
活動がどんな内容でもうけいれる形式的な活動というにとどまらず、
一つの目的(テロス)をふくんでいるからです。

「・・原理(アルケー)が運動しなければ、
活動の力はあらわれず、
実体(ウシア)は可能性(デュナミス)にすぎない。
だから、
活動(運動)を実体とするような原理が存在しなければならない。」
実体そのものに実現力がそなわる必要があって、
だから、
虗藭とはエネルギーを実体とするものなのです。 

「さらに、この実体は物質なきものである。」
というのも、
物質そのものは変化の生じる受動的な土台と考えられていて、
純粋で本質的な活動と直接に(端的に)統一されてはいないからです。 

ヘーゲル哲学史講義・中巻・Bアリストテレスの哲学・長谷川宏訳)