ヘーゲル哲学史講義によれば、アリストテレスの「魂論」(岩波旧全集では「霊魂論」)は、シュタイナー「神智学」における三分節化(自我・アストラル体・エーテル体)とみごとに対応しているように思える。ギリシャ哲学と神智学。
大事なところだけ書写してみます。
・・・斧の本質がきりたおすことにあり、目の本質が視覚にあるように、めざめていることが魂の活動(現実性)であって、身体的なものはたんなる可能性にすぎず、」実在性ではない。ーむしろ魂のほうが存在であり、完成体であり、実態である。
「ただし、生きた目は視覚と(可能性としての)眼球との結合によってなりたつように、魂と肉体がいっしょになって生命体ができあがるので、両者を区別することはできない。・・・」
実体をなすのは活動する形であり、物質は真の実体ではなく、可能的なものにすぎない。ー以上のようなとらえかたは真に哲学的なものです。「したがって、魂は生物体の運動の原理であり目的であり存在(実体)であり、生命体を生み出す原因である」
ー目的にそった原因であり、自分本来の形を明らかにしていく原因である。・・・「魂は目的でもある。思考に目的があるように、自然の動きにも目的があるのだ。生命体のすべての部分は魂を目的とする器官である。」
魂を欠く物質的なものはたんに可能的潜在的なものにすぎず、ー非有機的な世界をなすにすぎない。
(私)このあとが、魂の三区分として、とくに「神智学」との対応が顕著になる。
さらにアリストテレスは魂を三種類にわけて、栄養をとる魂、感覚する魂、思考する魂とします。それぞれが、植物の生活、動物の生活、人間の生活に対応します。
「栄養をとる魂だけがあるとき、それは植物に広く見られる植物的な魂である。それが同時に感覚する力をもつとき、動物的な魂である。栄養をとり感覚するだけでなく、思考する知性をももつとき、それは人間の魂である。」
(私) これはまさにシュタイナー「神智学」における「エーテル体・アストラル体・自我」の魂の三文節化そのものです。ギリシャ語からの翻訳の問題として、日本語に訳すといかにも素朴な印象を与えるので、日本の知識人には「未開な思考」として無視されてきたかな? ぼくにはすごい発見です!
(私)今読み始めた「動物の魂と人間の魂」と編集者が題したシュタイナーの講演も、同じ問題意識を刺激する内容なので、自分の低迷する今が必ずしも低迷そのものでは無い手応えが出てきた。物理的には詩を書いていないがきっと見えない詩は書き続けられていると信じて前向きに楽天的にいきたい。。。
(私)シュタイナーが詳論する内容は古代ギリシャの哲人たちには知られている”事実”だったのかもしれません。アリストテレス「霊魂論」は今年中に読みたいです。オカルティズムが古代叡智の復活であることを実感できる! そしてシュタイナーはその先を進んでいることは確かでしょう。
人間は植物の性質と動物の性質とを内部に統一するものだというわけで、ーこうした考えは、近代の自然哲学においても、人間は動物でも植物でもある、というかたちで表明され、三つの形式を区別し分離する考えと対立しています。
一方、魂の三区分も近代において有機体の考察のうちに生かされてもいるので、統一の面と区別の面をきちんとおさえることです。「問題は、三つがどの程度に部分として分離されるかという点にある。」
さて三つの魂の関係がどういうものかが問題ですが、三つを文字通りにべつのものと考えるのは正しくない。
アリストテレスが的確に指摘するように、「三つの形式を共有するような一つの魂がどこかにあるわけではなく、また、どれか一つの魂にぴったりあてはまるような特定の単純な形式が(さまざまな生物の部分として)存在するのでもない」のです。
この指摘は意味深長で、真の哲学的思考とたんなる論理的形式的思考とを区別する力をもっています。
(私)現代の日本の知識人には「真の哲学的思考とたんなる論理的形式的思考とを区別する力」が無いんじゃないか(笑)。
(私)この後に続く例えは味読すべき部分です。そして考え続ける必要があると思われる、色々な意味で喚起的な箇所。アリストテレスも(キリスト同様に!)たとえ話の名手であったということ! 前者は「知識人」に対しての、後者は民衆に対しての。いかに的確な例を引けるかが理解の到達度を示す。あるいはその人の言葉がどこまで肉体化しているか、「ロゴス」がその「人」にどこまで受肉しているか。昨日、シレジウスを読んだので、そんな風に言うことに躊躇しない。
「図形といっても、実際に存在するのは、三角形その他(正方形、平行四辺形など)の特定の図形である。それらはみな図形であるという点では共通だが、そのいずれにも共通する一般的な図形などというものは存在しない。」
一般的な図形とは、真ならざるもの、無なるもの、空虚な思考の産物、たんなる抽象です。「これにたいして、三角形は第一の、真なる、一般的な図形で、四角形その他のうちにもあらわれてくる、」ーもっとも単純な内容からなる図形です。
一方で、三角形は正方形や五角形とならぶ一つの特殊な図形ではあるが、しかし他方、ーここにアリストテレスの見方の偉大さがありますがーそれは真の図形、真に一般的な図形なのです。
「生物の魂についてもおなじことがいえるので、栄養をとる魂と感覚する魂は思考する魂のうちにも存在する、」ー魂を抽象体としてさがしもとめてはならないと言うわけです。
「栄養をとる魂は植物の本性をなす。この植物的な魂 ー第一の活動的な魂ー は感覚する魂のうちにも存在するが、それは可能性として(潜在的なもの、一般的なものとして)存在するにすぎない。」
植物的な魂は感覚する魂との関係で言えば、たんなる可能体、観念的なもの、述語が主語にそうように、感覚する魂にそうものにすぎません。同様に感覚する魂も思考する魂との関係においては、主語にそえられた述語にすぎません。
↑(私)ここはあくまでも「ヘーゲル哲学」をヘーゲルが述べようとしているのであって、アリストテレスの「例え」自体は、シュタイナー「神智学」における、植物(エーテル体)、動物(エーテル体×アストラル体)、人間(エーテル体×アストラル体×自我)の関係に「素朴に」対応していると思います。
「思考する魂のうちには、他の二つが、(その客体ないし可能体ないし潜在体として)ふくまれる。」
この潜在体は、形式的思考の考えるほど高度な存在ではありません。それは単なる可能性、たんなる一般性にすぎず、それに反して、現実的なものこそはどこまでも自分の内部にたちかえっていくもので、活動力や実現力はこちらのほうにそなわっています。
このちがいをもう少し丁寧にいうと、こうなります。
たとえばわたしたちは、客観的なもの、実在的なもの、魂と身体、感覚する有機体、植物体、などといういいかたをし、身体にまつわるものを客観的なものと名づけ、魂にまつわるものを主観的なものと名づける。
そのとき、客観的なものとは、たんなる可能性、たんに潜在的なものにすぎず、そして、自然の不幸とは、まさに、たんなる潜在性の域を抜け出して、顕在的な概念にならない点にあります。
自然界や植物界にも完成体は存在するけれども、もっと高度な精神界のなかにおいてみると、自然界の全体が客観的、潜在的なものです。
一方、この潜在的なものは、理念の発展を現実にになうものとしてもあらわれるので、そこには二つに側面、二つの道がある。つまり、一般的なものはすでにそれ自身、現実的なものでもあります。
アリストテレスのいいかたによると、空虚な一般性とは、現実に存在せず、また種族としても存在しないもののことで、実際には、一般的なものはすべて、特殊なもの、個別のもの、他と関係するものとして現実に存在する。
しかし、魂という一般的なものは、あるがままの姿で現実に最初の種族となり、それが発展すると、一種族というにとどまらず、一般に存在を実現していく原理となると言うのです。
この一般的定義はこの上なく重要なもので、真の有機体論はすべてここを出発点としなければなりません。
↑(私)シュタイナー”霊学”は、ここでヘーゲルの言う「有機体論」そのものであると言って良いと思われる。しかし、その詳細を書き述べる意味が(今のところ)見いだせない。勉強が進めば。。。あるいは別の形で。