アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

アリストテレスの自然哲学(ヘーゲル哲学史講義)

アリストテレスをもふくむ古代人は、
自然学といえば自然の一般概念をとらえるものと理解していたので、
自然学とは原理の論をさしました。

というのも、
自然現象のうちには原理とその結果としての現象という本質的な区別があるからで、
この区別を統一へともたらすには、
本来の哲学的思索が必要とされたのです。

  ☆

手段とは目的の観念のうちにおのずと含まれるもので、
可能性と現実性を関係づける活動、
 ー 純粋な現実性をうみだすものです。

アリストテレスのこうした表現のうちには生命の概念が含まれていますが、
自然の生命をとらえるアリストテレスの概念は近代の生命観、
自然観のなかではうしなわれてしまって、
もはや存在しない。

近代の自然観は、
圧力、
振動、
化合、
など、
外的な関係が基礎をなしている。

カントの哲学にいたってようやくアリストテレスの概念が再登場し、
生物は自分を目的とするものであり、
自己目的の存在だと見なされるべきだといわれる。

ただ、
カントでは目的が主観的形式にとどまっていて、
主観的な理論づけをおこなう上で自己目的をかかげるにすぎない。

が、
本当のところは、
ものをうみだす主体たる自己目的が自分をうみ、
自分を実現することによって、
有機的世界の全体が保存される。
 ー それがすなわちアリストテレスのいう完成体であり、
活動力なのです。

 ☆

・・・アリストテレスの自然は二重構造をもち、
そこには二つの契機がある。
「一つは物質であり、
もう一つは形である。
形が目的であり、
そのために、
ないし、
それにむかって、
なにかが存在するようなもの、」
自分自身を動かすものであり、
ー物質ないし基体が可能性である。
(可能性と活動力、
実行力とが統一される)。

  ☆

現代人は目的ないし概念という考えをうけいれず(現代的反抗です)、
自然の行為を一定の概念にむかう手段として合目的的にとらえようとせず、
目的にみちびかれたものと考えたがらない。

が、
目的とは、
他なるもののうちに自分を再建していくような概念です。

  ☆

動物のあごは水中生活から理解できる。
逆にいえば、
水中で一度変形を受けたゆえに、
そのような体型になったのです。

この変形の作用は生物に偶然にやってきたものではなく、
動物の霊魂にふさわしいかぎりにおいてのみ、
外的環境からのはたらきかけが有効だったのです。

  ☆

アリストテレスはいわばことのついでに自然と技術を比較し、
自然もまた前のものと後のものとを目的に即してむすびつけるものだといいます。

そういわれると、
わたしたちは外的な合目的生、
外的な目的論を思いうかべるのが普通ですが、
アリストテレスのいうのはそれではない。

かれはいう、
自然が目的にしたがって活動するのであり、
それ自体で一般的なものであるとすれば、
自然の動きが協議や熟慮を経てなされないからといって、
そこに合目的的な行為を見ようとしないのはばかげている、
と。

わたしたちは、

目的の設定とともに知性が登場し、
道具をもって物質にむかい、
物質を加工すると考えて、
こうした外的な合目的性のイメージを自然にも適用しようとする。

が、
「技術だって協議をおこなうわけではない、」
とかれはいいます。
「彫刻の形が大理石そのものの内部からおのずからにうかびあがるとき、
そこに自然がはたらいている」ので、
 ー それは目的にそって実行するという外的な合目的性とは対立するものだ。

  ☆

この正真正銘の自然概念をわたしたちは見失っていますが、
そうなったのには二つの要因があります。

一つは、
(α)機械論の哲学です。
これはいつも外的な原因(と外的な強制)を事物のうちにさがそうとする。
空や振動や力などは自然のうちにあるかに見えるが、
自然そのものに内在するもの、
ー物体の性質そのものに発するものー
では無く、
ちょうど液体の色のように、
外から与えられる添加物です。

もう一つが、
(β)知性を原因と考える目的論的物理学で、
ーここでは思考が自然の外部にあります。

そうしたなかで、
少なくとも有機体に関しては、
カントが真の自然概念をふたたびよびおこしました。

自然の産物はそれ自身が目的であるようなもの、
自己目的、
であり、
自分自身と関係する行為であり、
ある結果をもたらす原因でありながら、
この結果が逆にさきの原因の原因である、
 ー それが、
たとえば植物というものだというのです。

葉、
花、
根、
などは、
植物をうみだし、
植物にかえっていく。

それらのはたらきはすでに前もって種の性質からしてきめられており、
それが種子という個体のうちにこめられている、
 ー つまり、
種子は植物の自然をあらわすものです。

自然を成りたたせる手段は自然のもとにあり、
この手段がまた目的でもある。

自然のうちにあるこの目的こそ、
自然の理法(ロゴス)であり、
真に理性的なものなのです。

ヘーゲル哲学史講義・中巻・Bアリストテレスの哲学・二自然哲学)
長谷川宏