アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

松田優作・日本人・日本語

【記事】優作は膀胱ガンにより40歳の生涯を終えてから26年。日本人は松田優作という俳優が受けた「心の傷」に向き合って、そこからもう一度、差別がいかに残酷で人を追いつめるかということを学び直すべきではないのか。

ブラック・レイン』の松田優作は(も)すごかった! ハリウッド映画で活躍すべき「日本人」俳優として、かれほど期待できた人はいなかった。その彼が在日としてこんな風にくるしまねばならなかったことには、「日本人」として恥ずかしく思います。

ぼくは「日本人」がいる、っていうよりも、「日本語を使って生きる人」がいる、っていう方が正しいように思ってる。同じ日本語文化圏をになう盟友のようなもの。後者にあたる良い言葉があればいいんだけど。「大東亜共栄圏」とかとは別の意味で。日本語環境で生きている人・生きざるを得ない人たち。

言語はそれぞれの「文化」に固有な基底系を形成している(文化圏)。ぼくは個人的に日本語主義者(といっても排外主義者では無く。外国語を学び、愛する日本語で詩を書く)だから、日本語を使う人はぼくの文化的同類項です。といっても日本語を使わない在日外国人を差別するとかいう話でもありません。

「日本人」であることと「日本語」を使うこと。どうもそれが釈然としなくなるのが、「差別」を考える時ですね。少しずつ考えてみます。

西欧のユダヤ人がカトリックに改宗する(した)気持ちと、松田優作の悩みは通じるものがあるだろうか。松田優作の悩みの方が、歴史的には新しいだけに、傷も新鮮だったはずで、その分、痛みも激しかったのではないか。。。

”言語”こそ”民族”よりも上の階層に属すものなのだ!

これは霊的ヒエラルキーから言えば全く正しい!

それを”現実問題”としてどうとらえるべきかという問題。。。

松田優作が死んで26年なんて信じられないですね! それだけ存在感の大きい俳優だった。ざらすとろさんに教えられたこの記事のおかげで、日本人であること、日本語で生きていることが、「差別」の試金石を経ると、全く自明ではなくなりました。

うろ覚えですが、ウィトゲンシュタインが小学校の教師をしていた頃、彼がロシア語を習っていた夫人に、ある日、自分(の出自)はユダヤ人だ、と突然告白したという話があります。かれほどの人が、そんなことをわざわざ言わなければならなかった時代。

前にもツイートしましたが、ハイネがユダヤ人で、ゲットーのユダヤ人たちが虐殺されて財産を奪われる話を書いてる。