アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

クリヴィツキー「スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録 第2版」

わたしは、レーニンの密接な同志たちが、かれらの創建した国家の手にかかって死んでいく間に、スターリンが完全な権力の座に登っていくのをみた。けれども、他の多くの人たちと同様、わたしは、指導者層の誤謬がどのようなものであろうとも、ソ連邦は、今なお健全で、人類の希望なのだという考えで自分を安堵させたのだった。この信念さえも、ひどく揺るがされる機会、他の何らかの希望をみいだすことができたならば、新しい道路を選んだかも知れない機会が、何度かあった。しかし、いつも、世界のどこか、他の部分での出来事は、私をスターリンに仕えさせるのだった。

一九三三年(昭和8年)、
ロシアの民衆が何百万も、
飢えで死んでいったとき、
そして、
それを惹きおこしたのがスターリンの無慈悲な政策であり、
スターリンが、
国家の援助を故意に控えていると知ったとき、
わたしは、
ヒトラーがドイツで権力をとり、
そこで、
人間虗藭にとって、
生命を意味した一切のものを破壊するのをみた。
スターリンヒトラーの敵だった。
そして、
わたしは、
スターリンに仕え続けたのだった。

  ☆

わたしは、自分がそれまでにみたものに、眼を閉ざさなかった。世界には、何か他の希望があったかどうかは別にして、ヒトラーとは、偽善的に執着していた社会主義的言辞とマルクス主義的訓練の名残の点でだけ異なる一人の専制君主に仕えていたのだと、わたしは肝に銘じたのだった。

わたしは、スターリンと断絶した。そして、一九三七年(昭和12年)の秋、かれについての眞實を語り始めた(*)。この頃、かれは、ヒトラーを心にもなく非難して、ヨーロッパとアメリカの政治家たちの眼を上手にあざむいていた。多くの善意の人たちから、黙っているように忠告されながらも、わたしは、遠慮無く語った。スターリンの強制的集団化と強制的飢餓で死んでしまった幾百万人のために、強制労働をしながら収容所でまだ生きている幾百万人の人びとのために、撃ち殺された幾千もの同志たちのために、わたしは、口を開いたのだった、

スターリンの機嫌をとることや、民主主義の隊列中でスターリンが銃を担うだろうと希望して、この恐ろしい犯罪に眼をつむることが、気狂い沙汰だと公衆が信ずるには、裏切りの歴然たる犯行、つまりヒトラーとの協定〔独ソ不可侵条約〕が必要とされた。

スターリンが手のうちを見せた今こそ、近視眼の故に、あるいは戦術的理由で沈黙してきた他の人たちにとって、十分に語るべきときなのである。

  ☆

他の人たちにも話すべき義務がある。その一人は、ロマン・ロランである。この著名な作家が、その大きな威信のマントでスターリン独裁の恐怖を覆い隠すことによって全体主義に与えた援助は、はかり知れないほどだ。

  ☆

今や、
ヒトラーと闘う最悪の道は、
スターリンの犯罪に目をつぶるということであり、
この愚行に巻きこまれたもの誰もが、
口を開かねばならないということが、
痛ましくも明白になった。
・・・
誰一人として、
文明ヨーロッパが、
人間に対して、
その尊厳と価値とを囘復させる方法を述べることができないときに、
わたしは、
ヒトラースターリンの陣営にくみしないすべての人びとが、
眞實こそが第一の武器であり、
殺人はその本来の名で呼ばれるべきだと認めるだろうと、
考えるのである

ニューヨーク、1939年(昭和14年)10月 ワルター・G・クリヴィツキー

(*)著者は37年10月パリで亡命、同年11月アメリカに移住、41年2月ワシントンのホテルで謎の死を遂げる。

クリヴィツキー「スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録 第2版」まえがき、根岸隆夫訳(みすず書房、1962年第1版第1刷、1992年第2版第4刷)