1
墜ちてきた闇のなかの仄かな光
シューベルトのピアノ・トリオ
第二番変ホ長調
意識のなかに存在する音楽の全体
しかしそのとき譜を書くシューベルトは
”この音”の行方を知らなかった
つまりシューベルトも私も墜ちてきた闇のなかで
同じ生を生きている
時間こそがわたしたちの悲しみを盛る器なのです
2
蕎麦屋でH氏が
漱石の”こころ”を読んだ話をした
若い頃に読んでいれば感動できたはずだ
なぜならこの作品のテーマは死だからだと言う
自分の青春には死の臨在はなかったのだ
だから死が憧れでもあり得た
そういう口ぶりだった
つまり今の自分には死の気配がわかるのだという暗示に
私はおびえた
”こころ”は近代人のエゴイズムの悲劇を描いた作品であり
今も同じ問題をわれわれが心に抱いたままであるからこそ
普遍性のある傑作なのだという
私の抗弁も無力だった
はじめに耳鳴り
それから突発性難聴
そして深夜に救急車を呼ぶ胃の激痛
今は食事に困難があり
もともとやせすぎの彼がさらに五キロ痩せてしまった
原因は不明だという
路上で神経が震えている
孤独な走路の涯てに追いついた幻影
それは死の後ろ姿だったのか?
3
昨日の夜も
いつまでも終わらない地揺れに揺すぶられる
私は腰をあげなかった
東京大空襲
焼け焦げた死体を見ても何も感じなくなった
木原孝一を思った
4
散歩する対岸の土手に
草を食む山羊たちを見た
彼らには悩むところがないように思えた
しかし双眼鏡の視野のなかで
山羊たちの首には首輪があり
地面とかれらを結ぶものは細い鎖だった
5
絶望できる者は幸いである
天国は彼らのものである
絶望への情熱をもつ者たちは