9.30
では、
どういうことになるのか。
義を求めなかった異邦人が、
義、
しかも信仰による義を得ました。
9.31
しかし、
イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、
その律法に達しませんでした。
9.32
なぜですか。
イスラエルは、
信仰によってではなく、
行いによって達せられるかのように、
考えたからです。
彼らはつまずきの石につまずいたのです。
9.33
「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、妨げの岩を置く。
これを信じる者は、失望することがない」
と書いてある通りです。
10.1
兄弟たち、
わたしは彼らが救われることを心から願い、
彼らのために神に祈っています。
10.2
わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、
正しい認識に基づくものではありません。
10.3
なぜなら、
神の義を知らず、
自分の義を求めようとして、
神の義に従わなかったからです。
10.4
キリストは律法の目標であります、
信じる者すべてに義をもたらすために。
☆
パウロの信仰義認「ローマの信徒への手紙」(新共同訳)よりメモ(9.30-10.4)http://t.co/yFdofebZrc ・・・と言うことだと思うのですが。基督教史にはあらゆるイデオロギー闘争(ロゴスの闘い)、非道、悪の元型がぎっしりとつまっているので魅惑されてしまう。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) October 25, 2013
↓(・д・) “正義論”はぼくの射程の届かないところにある。“義"というものが、くせ者なのだと思う。戦争を正当化するアメリカ国民の心のなかにあるのは、きっとこの“義"の感覚なんだと想像する。信仰義認より、律法義認的国家アメリカ。パウロなら、アメリカの戦争は肯定しないでしょう。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) October 25, 2013