アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「国家の“強さ"は 国家を担う人びとの"弱さ"の証拠なのである」シュタイナー

古い社会要求はもはや生き続けられない。
このことは、
その要求が人間の生産労働を促す力となり得ない、
という事実からも明らかである。

資本の収益と賃金の所得という古い経済要求は、
人間がそれに対する欲求や愛を発達させることができる古い生活財がまだ十分に残されているかぎり、
大きな力になることができる。
しかし古い生活財はこれまでの時代のなかですっかり汲み尽くされてしまった。

そして今日、
多くの資本家たちは何のために資本を蓄積しているのかわからなくなっている。
そして賃金労働者もまた、
何のために働いているのかわからなくなっている。

国家機構の中に働いていた社会要求も、
すべて汲み尽くされてしまった。

多くの現代人にとって、
国家は自己目的的に存在しており、
人びとのために存在しているのではない。

そして多くの人は、
自分がそう思っていることに何の疑問も感じていない。

人びとが国家を自己目的的な存在としか見ることができないのは、
人間の内なる個性が自己を主張できなくなってしまい、
その自己主張に応えてくれるような国家制度を要求できなくなってしまったからである。

その結果、
今日の人びとは、
本来の使命に反するような国家制度の中に国家の本質を求めねばならなくなっている。

だから人びとは、
国家の中で自由に発言できるような条件を作ろうとするよりも、
国家制度の中に安んじて身を置くことの方を喜ぶ。

しかしその場合、
国家の「強さ」は、
国家を担う人びとの「弱さ」の証拠なのである。

シュタイナー「社会問題の核心」第二部 社会有機体三分節化をめぐって 四=われわれが必要としているもの (高橋巖訳 イザラ書房 1991年4月30日 第一刷)