アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル”哲学史講義” A.プラトンの哲学  三.精神の哲学 ”ヘーゲル的堕落論 ヘーゲルの辛辣な個性の発露”

(α)理想にかんして第一に注意すべきは、
キリスト教世界では完全な人間という理想像が一般にうけいれられていることです。
(といっても、国民の大多数が完全な人間だということはありえませんが。)
修道士やクエーカー教徒といった敬虔な人びとのうちに理想像の実現が見られるとしても、
そうしたものさびしい集団が一国民をなすことはないので、
それはちょうどシラミがなにかに寄生しないでは独立に生きていけないのに似ています。

そうした人びとが一国民を形成したとすると、
かれらの子羊のような柔和さや、
自分の人格のみにかかわってこれをいつくしみ、
そだて、
いつも自分の高潔さを思いえがき、
意識するようなむなしい心情は、
ほろびゆくほかはない。

というのも、
共同体のなかでの生活にとって必要なのは、
無気力で臆病な柔和さではなく、
精力的な柔和さであり、
 ー 自分のことや自分の罪にかかずらうのではなく、
全体のこと、
全体の役にたつことにかかずらう精神だからです。

隠遁者の体現する悪しき理想像にとらわれた人は、
当然のこと、
人間はいつも弱さと堕落につきまとわれ、
理想を実現出来ないと考える。
というのも、かの隠遁者たちは、
日常のみっともない行為を理にあわぬまでに重視し、
人間には自分たちの気づかぬ弱さや欠陥があると考えるからです。

そうした考えをかれらの高潔さのあかしと見てはならない。
むしろ、
みずから弱さや欠陥と名づけるものに目が行くのは、
かれら自身にそれらを利用しようとする堕落した心情があるからです。

弱さや欠陥をもつ人間は、
それを利用しようとしなければ、
直接に自分自身でそれを克服するものです。

悪徳とはもっぱらそれにとらわれることにあって、
それをどうしようもないものと考えることが堕落なのです。

長谷川宏訳 ヘーゲル哲学史講義・中” 河出書房新社 1994年2月20日再版)