真理は幻ではありません。
のぞみをもつことは、
もちろんまったく自由です。
しかし、
偉大なことや真なることにかんして心に敬虔なのぞみしかもたないのは、
神意にかなったことではない。
ちょうど、
すべてが神聖不可侵だからといってなにもしないことや、
すべて特定のものは欠点があるからといって特定の仕事をしようとしないのが神意にかなうことではないように。
だから、
どんなに洗練された形式をとるにしても、
隠遁者の理想像などにまどわされてはならない。
修道士やクエーカー教徒そのものがまちがっているのではなく。
欲望のきりつめと、
多くの有用なものをだめにする精力的行動の抑圧という原理がまちがっている。
すべての関係を維持するのは矛盾したこころみです。
有益な関係でも、
やむをえずこわさねばならない局面がかならずある。
哲学と国家との関係でふれたところでのべたことですが、
国家の理想とはそのようにすべての関係を保存するものと考えられてはならない。
そもそも一つの理想が理念ないし概念の力によって真なる内容をもつとき、
それは幻ではなく、
真理です。
そして、
そのような理想は余計なものでも無力なものでもなく、
現実的なものです。
真の理想は実現されるべきものではなく、
現実そのものであり、
唯一の現実である。
ー そのことが第一に信じられねばなりません。
ある理念が実現するには立派にすぎるということであれば、
それは理念そのものにいたらないところがある。
プラトンの国家が幻であるとすれば、
それはその国家をうけいれるほどに人類が立派でないからではなく、
立派に見える国家が人類にとって欠けるところがあるからです。
つまり、
現実のほうがよすぎるのであって、
というのも、
現実的なものは理性的だからです。
とはいえ、
本当の現実とはなにかをきちんとおさえておかないといけない。
日常生活では一切が現実的だが、
現象世界と現実とは区別する必要がある。
現実は外面的にも存在するので、
ちょうど自然のうちに木や家や植物が生ずるように、
恣意や偶然が外面的な存在です。
表面的な共同生活や人びとの行動には多くのわるい点があって、
改善の余地が十分にある。
で、
実体を認識しようとすれば、
表面的なもののむこうにあるものを洞察しなければならない。
人間は悪徳や腐敗にいたる可能性をつねにもつが、
それは人間の理念ではない。
表面にはさまざまな情念がじゃれあってはいるが、
それが共同生活の現実ではない。
その場かぎりの一時的なものはたしかに存在し、
人にそれ相応のくるしみをあたえもするが、
とはいえ、
それが真の現実をなすわけではない。
主観の特殊な性質やのぞみやこのみと同様、
それは外面的な存在にすぎないのです。
☆
以上のことと関連して、
以前にプラトンの自然哲学においてなされた区別が思いあわされます。
そこでは、
至福の神をさながらにあらわす永遠の世界は、
天上や彼岸にあるのではなく、
現実そのものであり、
それも聴覚や視覚にうつる現実世界ではなく、
真理を見る目がとらえた現前する現実の世界である、
といわれていました。
プラトンの理念の内容をそのようにとらえれば、
プラトンが実際にギリシャの共同体をその実体に即して表現しているのはあきらかです。
ギリシャの国家生活がプラトンの国家の真の内容をなしている。
プラトンは抽象的な理論や原則をもてあそぶような人ではなく、
かれの真実を見る目は真理を認識し表現している。
そしてこの真理とはかれの生きる世界の真理にほかならず、
かれのうちにもギリシャのうちにもひとしく生き生きと脈打つ同一の精神の真理なのです。
どんな人も自分の時代をとびこえることができず、
時代の精神はおのれの精神でもあるので、
重要なのは、
その精神を内容に即して認識することです。