アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

逆走する夢とバプテスマ

片側二車線の高速、追い越し車線で車を走らせている。
前方から昔のアメリカ車のような長くて大きな灰色っぽいセダンが迫ってくる。
私はそれを運転席からではなく、俯瞰する光景として見ている。
お互いにブレーキをかけるが、間にあわない。
夢のなかでは、怪我も衝撃も無い。
双方下車して車の前方をチェックする。
相手の車のバンパーの出っ張りのままに私の車は傷ついていた。
相手の人が、さらにライトも駄目になっていると指摘した。
初めは、向こうが逆走してきたと思っていたのだが、その時点で、この道は実は普通道路で、逆走していたのは私だったのではないかと思い、ぎょっとした。
そこで長い昼寝から目が醒めた。
既に暗くなり始めた雨の日曜の午後だった。
私は車線を勘違いして逆走しているのではないか。
夢は怖い。

夜、雨音を聞きながら、使徒行伝・第八章(大正十四年・神戸市英国聖書協会発行)を読んでいた。

・・・視よ、エテオピヤの女王カンダケの権官にして凡ての寶物を掌る閹人、エテオピヤ人あり。

ピリポにイザヤ書の預言を解いてもらい、得心してバプテスマを受けるエテオピヤ人宦官。シュタイナーによると、本来の洗礼とは、水中に没して溺れかけ、臨死体験することらしい。そこで霊界を感受したということらしい。

・・・途を進むる程に水あるところに来りたれば、閹人いふ「視よ水あり、我がバプテスマを受くるに何の障りある」乃ち命じて馬車を止め、ピリポと閹人とともに水に下りて、ピリポ閹人にバプテスマを授く。彼ら水より上りしとき、主の霊、ピリポを取り去りたれば、閹人再び彼を見ざりしが、喜びつつ其の途を進み往けり。

とある。聖書解釈の問題は不案内だが、やはりシュタイナーの言には説得力を感じる。「水に下りて」という表現が、川か、池の中に入って行く感じで。

マルコ伝第一章(馬可傳、明治三十七年、神戸、発行者=英国人エフ・パロット)によれば、
・・・ヨハネ野においてバプテスマを施し罪の赦しを得させんが為に悔改めのバプテスマを宣べ伝えたり。ユダヤの全国及びエルサレムの人々かれに来りて各々その罪を認はしヨルダンといふ河にてバプテスマを受。

とあり、洗礼者ヨハネヨルダン川バプテスマを授けた。確かに、川なら、全身が水没するだけの水量があって、シュタイナーの言う洗礼の仕方が可能だろう。