アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

窓に座って父と二人、水の中の巨大な鯉と亀を見る夢

最近、ブログをサボっていたのは、それなりに生活に追われていたせいなのだが、もう一つ、独特の疲労と生産効率の悪さに悩まされているせいでもある。身体の動きが意欲に追いつかない。しかし、健康状態が悪いかと言うと、そう言うことでもない。内的な身体の要求に従っているだけだ、と言う感じもある。夢の記述も疎かになり、この夢も見てから数日経っている(五月二十九日に就寝した際の夢)が、重要だと思うので、記録しておこう。

大きな長方形の窓枠に座って、前方、眼下に広がる水面を眺めている。父が隣に座っている。父であることは確かなのだが、何か、この世の人では無いとでも言うか、存在感が人間離れして、透明な感じだ。実際に父の姿を見てはいなかったが、感じていたのだろう。ちなみに、私の父は平成十二年に他界している。

大きく広がる水面の中に、巨大な魚が現れる。十メートル以上はある。鯉だと思った。その巨大な鯉の右隣に、同じく巨大な亀が現れる。水は澄んでいた。左に魚、右に亀。

澄んだ水の中に、巨大な魚が泳いでいる夢は、繰り返し、繰り返し見てきたものだったが、ある時期から、夢のなかの水が濁ったり、枯渇したりして、魚も現れなくなった。それどころか、巨大な魚が輪切りにされて、公園のような場所で置き去りにされている夢も見た。

再び澄んだ水の中に、巨大な魚が現れた。以下は五月二十九日のツイートで、シュタイナーの講義録からのメモである。この主題を考えようと、この夢を見る眠りに入る前に、マタイ伝を読み返していたのである。

【メモ】シュタイナー(1910.3.15ミュンヘン)によれば、マタイ伝5.3-5.10「山上の垂訓」における「幸い」は、肉体、エーテル体、アストラル体、感覚魂、悟性魂、意識魂、霊我、生命霊、霊人、それぞれの浄化の達成による果実を意味するらしい。

亀は、どうやら、自分の中では、東洋を意味するらしい。魚は、キリストだと思う。水は、霊界、或いは、エーテル界か。父は、自分を指導している霊的存在かも知れない。窓は、最近、夢に見るようになった新しい要素。霊的な世界への窓、そのものか。そう言う解釈をすると、現在の自分の霊的な課題を映し出している夢のようにも思える。

ここまで書いてきて気がついたのだが、シュタイナーによれば、二十世紀前半に、キリストがエーテル界に出現する。福音書の時代、キリストは地上の肉体に受肉したが、それは宇宙でたった一度の出来事であり、以後キリストが再度肉体に受肉することは無い。二十世紀前半のエーテル界へのキリストの降臨は、太陽神キリストが、地球の神として、以後、常に人々と共にあることを意味する。人々は、今後、エーテル界にキリストを見出すであろう。そのようにシュタイナーは力強く預言して、この世を後にして行った。出口王仁三郎の「霊界物語」にも、出口なおによる同様の預言が見出されたと思う。

人智学徒としての私は、長い間、自分がキリストに出会う機会がいつ来るのかと思いあぐねていたのだが、実はごく若いうちから、夢の中で、エーテル界に於けるキリストを見ていたのかも知れない。そのことに気がついていなかっただけなのかも知れない。確かに、この夢は、昔から私を慰め、力を与え続けてくれた夢だった。

このことに気がつくようにと教示した夢だったか。だとすれば、魚と亀は、西洋と東洋の霊性を代表しているのだろう。日本人としての自分の課題を示されたような気がする。