アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

シュタイナー熱と登校拒否

人智学は何か学ぶものだと考えられやすい。しかし、それ少し間違っている。そういう静かなものではなく、何かもっと扇情的なものだ。魂に直接訴えかけてくるものだ。シュタイナーはアジっているのだ。今も、霊界の街角で、街宣車の上からアジっている天使を見かけたら、それはシュタイナーだ。
どういう形であれ、行動を促すのが人智学だ。それにはもちろん、内的な行動も含まれており、人智学の学習、瞑想の習慣も入るだろう。しかし、本来の人智学は何かもっと力強い、ある意味暴力的でさえあるものだ。それは常識に挑戦する。習慣に挑戦する。むしろ生を危うくする。そしてそれによって、もうひとつの生に目覚めさせる。そういう、とても危険なものが人智学だ。人類の真の闘いの場がどこにあるのかを晩年のシュタイナーは示していると思う。その闘いに参戦するように呼びかけていると思うのだ。

現代日本人の弱い人間性は、奴隷化教育によって培われた。
競争原理は、奴隷支配の原理である。自由市民は競争する必要がない。競争相手がいるとしたら、過去の偉人たちだ。
同時代人は、助け合う仲間なのだ。それをお互いが競争するように仕向ける教育は、奴隷を育成する教育である。
生が競争だというのも、そういう幻想を共有することで社会的に成立しているにすぎない。そういう世界なら、われわれが変えればよいだけだ。

シュタイナーは「社会の未来」の中で、「現代には心を病んだ人が多い。それは皆さんが考えている以上に、社会の表面に現れている以上に多いのです。そして、それは、学校での経験が原因になっている場合が多いのです」という意味のことを述べている。それは百年近く前の発言だが、私には全く今の日本の現状を指摘されているとした思えなかった。

私には二人の子供がいて、その二人ともが登校拒否になって、ずいぶん苦労した。
そして私の得た結論は、登校拒否する子供の方が正しく、間違っているのは学校のあり方ではないか、と言うものだった。
もちろん、問題なく学校に通えることが何よりである。教育の機会を普通の学校以外に求めるのは、経済的にも負担が大きく、生活自体に苦労することになる。

しかし、今、登校拒否せざるを得ない子供や、その親に出会ったら、私が言いたいのは、それはあなた(あなたの子供)が選ばれた人間、むしろ限りなく人間として正常で、すばらしい感受性をもった人間なのだということである。そのことだけは声を大にして言いたい。自分(自分たち)を責めるようなことはすぐに止めて、どうであれ、何か前向きな方策を考え、実行して行くことだと思う。学校に戻ることを前提にして苦しむのは得策ではない。既定路線からの脱線はむしろチャンスだと考えた方がよい。線路の上を走っても、行き先は決まっている。線路から降りて、自分(たち)の自由な道を走り出すのだ。