アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「魔笛」を観た夜

昨日、夜中に起きて、遂にモーツアルトの『魔笛』を観た。CDでは何度も聴いてきたつもりだが、映像で観るのは実は初めてだった。コリン・デイヴィス指揮、コヴェント・ガーデン王立歌劇場における2003年のライブと言うことで、メイソンのグランド・ロッジを構える本場イギリスの魔笛は、さすがに素晴らしいの一語に尽きた。夜の女王の歌い手が歌唱・演技ともに魅惑的で、ザラストロより、夜の女王を応援したくなってしまうくらいだった。

知らない単語もあって、英語字幕すべてを追えたわけではなかったので、所有しているCD(カラヤン指揮のものと、スイトナー指揮のもの)の解説で、台詞など詳しく見直すべきだが、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか/シュタイナー」の最終章近くの記述に対応する場面が、やはり、終幕に出てくる。霊界参入を前にしての境域の守護霊との対話。ここでは、境域の守護霊は、襤褸をまとう一対の不気味な剣士として表現されていたが、演出によっては異なる扱いもあるのかも知れない。火の試練、水の試練は、それぞれ、不気味な赤と青の照明に彩られたダンサーたちの印象的な群舞で表現されていた。マンリー・パルマ−・ホールのメイソンの解説「フリーメーソンの失われた鍵」にも、「いかにして・・」と対応する記述が見られるが、かなり表面的なものである。メイソン流のエジプト趣味オカルティズムは、ルネッサンス以降のヨーロッパに広く流布したものだと思うが、こうあからさまだと、ローマ・カソリックににらまれても仕方がないかと納得してしまう面もあった。この辺が、後述するモーツアルト暗殺説を支持する視点になるかも知れない。「神殿」入りを許されるとは、霊界参入の意味である。秘儀参入のプロセスを、無垢の王子タミーノと凡夫パパゲーノの二つの視点から描いているところが重要で、次第に唯物論が支配的になる時代を前に秘儀参入を問題にしたワーグナーの深刻さとは対照的な人生肯定的な明るさがある。モーツアルトの死因として、フリーメーソンの秘密を漏らしたために殺されたと云う説があるが、確かに、「魔笛」の初演が1791年9月30日で、その年の12月5日に亡くなっている。

夜の女王の三人の侍女は、明らかに、思考と感情と意志を代表しているのだろう。生の困難を示すと思われる大蛇に襲われるタミーノを救うのはこの三人の侍女だが、その後、彼女たちが魅力的な青年タミーノをめぐって仲違いを始める。思考と感情と意志の統合は「メーソン的」修行においても重要な課題である。霊的修行の過程で、三者が分裂し、悲劇的な状況を招来する危険性に、修行者は常に意識的でなければならないし、その危険に対する防御の意味でも、自分の道徳性の向上(自己超克)に努める必要がある。「魔笛」のあらゆる場面で、重要な因子は常に「3・triplet」の形で表現されていることは、オカルティズムの観点からは当然で、例えば、道々タミーノとパパゲーノを導き救う童子も三人で現れるし、結社の門も三つある。ホール等は魔笛の詳細なメーソン的解釈を公表していると思うので、調べてみたい。

そんなことを考えながら、眠りに入ったので、早速、この問題の夢を見た。
私は、尊敬する友人のS先生と、H先生の三人で、車に乗っている。運転はH先生だ。H先生が、ブレーキがきかないと叫ぶ。前方の道路は、完全に冠水しており、このままでは、水没してしまう。私は、車から、飛び降りたようだ。H先生も一緒に飛び降りたらしく、私と一緒にいる。しかし、S先生が見当たらない。心配していると、後ろから、にこにこして現れた。

H先生は、あるお店で感情を爆発させたエピソードが有名なので、感情を代表しているのだろう。S先生は、私には真似の出来ない、意志の揺らぎの少ない人物で、決意したことはやり抜く強さを持つ。そうしてみると、残りの私自身は、思考を代表していることになるが、この夢は自分を買い被っているかもしれない。ともかく、思考・感情・意志を代表する人物たちが、一緒の車に乗って、そのブレーキがきかなくなると云う危機である。その運転手が、感情であり、危機の本質は、水難である。「水の試練」において、感情が暴走する状態を示している夢だということになった。