アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

人間を潰して車にすること

今朝も夢を見た。

人間が、横になって、ベルト・コンベアーのようなものに載せられていると思って下さい。しかし、私が人間と思った存在は、現実の人間とは似ても似つかない、白っぽい身体に様々な原色が混ざったような、今考えると、フランシス・ベーコン(画家の方)の描く人間のようなものなのです。その脇にいる存在が、人間の口に太い円筒をドスンと落とすのです。すると、車が出来るのです。

車になるというのは、そう言うイメージを見たのではなくて、夢の仲で私がそう思うのです。シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか/ ちくま学芸文庫」に記述されていることですが、人智学的な霊的修行の態度として、自分自身を他人の如く見ること、と言うのがあります。更に、自分自身の身体を、自分の乗り物の如く捉えること。これは、この通りに書かれているわけでは無いかも知れませんが、そう言う意味のことも出てきます。

そういう観点から自分を見ると、そもそも、生活や、身体そのものに起因する全てに、常に脅かされ、時には楽しみ、また苦労の種をまき、甲斐性のない自分を悔やみ、なんやかや。と言う具合で、身体性・生活から逃れ得ぬ自分を常日頃思い知らされている自分には、シュタイナーの云うように、身体を乗り物としてとらえることが、常にある種の課題として頭の片隅にあるのです。

したがって、この夢で、車というのは、霊の乗り物という意味です。そして、私は、この夢のなかで、本当に怖いものを見たと感じていました。上の記述は、私の筆力の関係で、何か淡々としていますが、夢を見ている私は、ひどい恐怖と嫌悪感の入り交じったいやな気持ちを味わっていたのです。

人間が潰されて、人間以外の霊の乗り物になってしまうのですから。
私は、昨年来、悪の問題を考え続けてきて、関連すると思われるシュタイナーの講義録を読みあさって来たのですが、最近、悪に関する認識において、多少の進展があったと思います。一口で言えば、2(二元論)と3(三分節化)の問題なのですが。

種々の色の入り混じった人体は、肉体ではなく、エーテル体とアストラル体でしょう。そして、自我・ロゴスの表現器官としての口を潰すことは、人間の霊を潰すことでしょう。残りの人間の入れ物を、他の存在が乗り物として使うのです。

そういう風に、今朝、私はこの夢を解釈しました。単純な解釈で、SFボディー・スナッチャーのオカルト版ですね。しかし、私には、既にそんな風に、自分の霊的基盤を潰され、他の存在の単なる乗り物になってしまった人たちが、この世界を切り盛りしている風にしか思えないのです。

就寝前に、BS・NHKテレビで、「クラスター爆弾の禁止」を話合う国際会議で、米国・中国・ロシアなどが反対している状況、更に、日本の代表団(外務省)の米国追随の態度を見て、激しく憤ったことも関係しているかも知れません。