アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

自己肯定のスイッチ

私は本当に世間が狭く、ほとんど隠遁生活に近い状態を続けてきた。そう言う人間にとって、ツイッターやネットなどで知った人たちの実物を、デモに行って現場で"照合する"作業は、どこか現実離れしたような新鮮さである。「右から考える脱原発デモ」で知り合った人たちが多い。そのなかで、私にとっての最大の発見は、自己肯定のスイッチが入ってしまった人たちとの出会いであった。私が震災以前に付き合ってきた人たちは、結局のところ、優等生のなれの果てだ。これは自分を含めてのことである。優等生とは、見方を変えれば、奴隷のことである。

特に、現代科学は、巨大化し、アカデミックな制度として堅固な教義体系とそれを信仰する集団のグローバルなネットワークを持ち、『世俗権力』のイデオロギーを構成する最大の因子のひとつでもあって、中世のローマ・カソリック教会の裏返しのような在り方をしているが、その末端の「修道士」達には現代科学の有り様に本源的な疑義を持つものも皆無とは云えず、私のような「はぐれ修道士」もこれからは増えるはずだ。或る種の精神的奴隷の立場を受け入れることで、科学の結社に入会することが許されている現状は否定できない。

シュタイナーによると、10世紀のある公会議(特定しなければいけませんが)において、霊・魂・体の三文節化された人間論が異端として退けられ、魂と体の二元論的な人間観がその後の西洋を支配するようになったという。デカルトを例にしても、その影響を暗黙のうちに無批判に当然のこととして受け入れているという。私の素朴な解釈であるが、霊は教会が管理することで、教会が信者から「自由」を奪ったわけである。霊の救済は教会の管理下におく。

原罪というのものも、個人のものではなく、人類が農業を知り、富の蓄積を開始して文明化したことの謂である。紀元前三千年頃、ルシファーが中国に受肉し人類を教化したことが文明の発端であり、ルシファーとは楽園の蛇のことであるというシュタイナーの別々の言をつなぎ合わせると、そう言う結論になる。だとすれば、個々人には原罪は無い。しかし、それでは、教会は困る。洗礼を受けた人間にしか、原罪は許されない(魂の救済はない)と云うのが、教会による個人支配の仕組みなのだから。欧米で麻薬が根絶されない背景には、キリスト教会による原罪意識の植え付けがあると私は思う。欧米人が自己肯定するためには、非常な努力とエネルギーを実は必要としていて、逆にその葛藤の中で鍛えられてきた強固な自我が彼らの強みでもある。

ヨーロッパ中世の異端的な神秘思想家達も、迫害されてアメリカに移民したキリスト教徒(なかにはドイツ神秘主義の系統もあったと云う)にしても、本来的な人間解放の衝動を持っていた。特に、アメリカで大きな力を持つ人間解放に連なる様々な運動のルーツも元をたどるとそこに行き着く場合が多いらしい。

現代の日本で、メンヘラーとして知られる年若い人たちがいる。精神科に通って薬を処方されているような人たちだ。彼らは既に一つの階層を形成している。子供を専門的に対象とする精神科医院さえも増えてきている。シュタイナーによれば、カリユガ(末法の世:人類が霊的な世界から切り離された時代)は1890(正確には後で原典でチェックします)年頃に既に終わっており、人類が再び霊的な世界を身近に知る時代が近づきつつある。そのような時代に生まれてくる人々は、霊的には進んだ人々である。しかし、そう言う人たちが、この現代日本で、繊細な霊性を健やかに育てることは至難の技だ。高橋先生によれば、そう言う人たちが精神病院に入れられる時代をシュタイナーは予測していた。

結論を急ぐ。現代の日本では、implication(含み)による教化・宣伝が進んでいる。それは、マスコミの常套手段でもある。直接の言明ではなく、言外の意味としてメッセージを伝える手法だ。私が自分自身、日本の義務教育体系のなかで、身体にしみいる形でimplicationとして受けてきたものこそ、「自己肯定のスイッチに触れるな」と云うことではなかったか。優等生が得たものの代償は、おそらくそこにあるのだ。優等生のなれの果てが奴隷であるというのは、その意味である。

自己肯定のスイッチとは、自己のうちにある霊の存在に気付くと云うことである。あるいは、自己のうちなる霊の声に従って生きることである。もちろん、ほとんどの場合、それは、全く無自覚に行われているのだと思う。しかし、自己の内なる霊は、決して、個人だけのものではない。個即宇宙、個即全の声である。神秘家こそ最大の危険思想家である。火炙りにされても仕方が無い。個人のなかの霊性に目覚めた者ほど、体制にとって恐るべきものは無い。

メンヘラー達が救われる契機も、優等生のなれの果てが救われる契機も、そして、世界が救われる契機も、おそらく、われわれが自己肯定のスイッチをオンにすることにあるのだ。そして、私にとっての人智学とは、おそらく、そのための道程を示す地図であり、ガイドなのだ。