自我は、
「自分が一切を見ている」というモードでいつも働いているわけではないのに、
反省的思考のなかに入り込むと、
「自我が一切を見ている」という仕方で、
すべてを再構成的に塗り込めてしまう。
それ以前の現象の生きられ方・経験のされ方は、
変様を蒙り、
隠蔽されて見えなくなってしまうのである。
ここで問題になっているのは、
行為的経験のモードから、
自我的反省モードへの変様である。
この変様を遡って、
自我による再構成的糊塗から現象をもう一度取り戻すことが必要になる。
自我による再構成を解体しながら、
再構成以前をさらに再発見することが必要になるのである。
自我的再構成は、
「自分は再構成である」とは言わない。
むしろ、
「最初からそうだった」と主張する。
だから、
「再構成以前」の再発見は、
いわば「超越論的過去」の露呈ということになる。
普通の意味で時間を遡るだけでは、
自我以前には遡れない。
再構成の働きにより、
そこにはもう自我がいるからである。
それゆえ、
自我による再構成以前に遡るには、
過去・現在・未来・空想世界など、
そこにもう自我がいるすべての場所を超えてゆかねばならない。
自我によって見られた一切のものは、
いわばすべて滑らかな、
破れ目のない自我的スクリーンの上に映されている。
われわれは、
このすべてを包む滑らかなスクリーンの「手前」に遡らねばならない。
それは、
思考するかぎり、
どこにも手がかりのない謎かけのようなことにとどまる。
だが、
行為し始めた途端に、
われわれはもうこのスクリーンから離れている。
少なくとも、
このスクリーンは、
再び呼び出されるまではどうでもよいものにとどまっている。
行為よりもさらに、
われわれをこのスクリーンの前から引き剥がしてくれるのが、
「他者」である。
他者の呼びかけは、
私をこのスクリーンの包括的な遍在性から引っ張り出して、
他者と共にいる世界へ、
自分もまた一存在者として世界のなかにいるモードへと私を引き戻してくれる。
そこで私は、
一切を自我的スクリーンに包むような見方の方が、
ある特殊な、
一時的エピソードであったことに気づくのである。