アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

坂口安吾「教組の文学」より

疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、遁走、まったく惡戰苦労である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生まれて育ってきたのだ。

それはすべて生きるためのものだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの惡戰苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。

本當に人の心を動かすものは、毒にあてられた奴、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ。思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青ぞらやすきとおった風などは見ることができないのである。

人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。歷史というお手本などは生きるためのオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。

仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ。 

良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。 

(私)やっぱり安吾の感じ方には共感できます。小林秀雄はなんか性に合わなくて一冊も読んだことが無い。あの文体が。読もうと思ってもすぐに止めてしまいます(笑)

美というものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支えとなるもので、よく見える目というものによって見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。無慙なものだ。不幸なものだ。人間がそういうものだから。

・・・そのくせ彼は水道橋のプラットホームから落っこったが、彼の見えすぎる目、孤独な魂は何と見たか。・・・女のふくらはぎを見て雲の上から落っこったという久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何という相違だろう。これはただもう物體の落下にすぎん。

然しまことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本當の美、本當に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。