・・・その後もシリアは主権を行使し続けた。
デメトリウス一世はシモンに完全な租税免除と同時に独立を与えた。
「〈セレウコス歴の〉一七〇年にイスラエルから諸民族の軛が取り除かれ、イスラエル民族は契約書や条約文に『大祭司、将軍、ユダヤ人の指導者シモンの第一年』と記し始めた」(第一マカベア書13.41以下)
こうして独立を獲得した国家の内部状況は決して落ち着いたものではなかった。
確かにヘレニスト達は大損失を蒙り、
影響力を失っていた。
しかし、
主として上層階級から大祭司のもとに形成され、
トーラーの承認に自己の立場を限定していたサドカイ派に対して、
口頭伝承をもって律法を補完することにより「律法のまわりに垣」を設け、
その煩雑な法解釈をもって日常生活と祭日の生活を厳重な囲いの中に押し込んだ民衆党パリサイ派が対立していた。
パリサイ派は預言書と諸書をも聖書と認め、
少なくともその支流においては黙示文学への志向性が助長されていた。
エッセネ派のごとき分派集団も形成された。
そして、
彼らとクムランの人々の間には関係があったと思われる。
彼らはおそらくその時代の流血の対決から身をひいて、
注意深く守られた秘教の中で、
近づきつつある終末における神の干渉にすべてを期待していたのである。