アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

フィヒテ「人間の使命」第一巻「懐疑」第一章「自然」

直接的自己意識においては私は自由であると思われる。しかし全自然について省察すると、私は自由は全く不可能であると思う。前者は後者に從属させられなければならない。なんとなれば前者そのものの説明さえも後者を俟ってできるのだからである。

☆「自然の決定論」の射程内に留まる限り、自由も自然に從属してしまう。という意味でしょう。読書再開しました。#冷やし中華始めましたのノリでいこう

自然はその産出の一定の階段を徐々に昇っていく。単なる物質においては自然は単純な存在である。有機物質においてはそれは自己自身に還り、自己に内的に作用する。形態を取る植物において、運動する動物において、そうである。

その最高の傑作としての人間においては自然は自己に還り、自己自身を直観し、考察する。自然はいわば二重化し、単なる存在から出て、存在と意識の合一態となる。

私が私自身の存在とその諸限定についていかに知るべきかは、この連関において容易に説明される。私の存在と知識は同一共通の根拠、すなわち私の自然一般をもっている。私のうちには、まさにそれは私の存在なのであるから、同時に自己について知らないような存在はない。

・・・しかし外物についての認識は外物自身のうちにはなく、また、それから流出するわけでもないのである。私が或るものを私の外に想定する根拠は、私の外にではなくて、私自身のうちに、私自身の被制限性のうちに、存するのである。

この被制限性を媒介として私のうちなる思考する自然は、ー自己自身を出ていき、自己の全体的展望を得るのである。だがこのことはそれぞれの個体において独自の観点からなされる。

☆ ぼくは素直にこの「被制限性」を前段の「決定論によって”自由が自然に從属させられている」という意味に取った。訳者は「私のうちなる思考する自然」が自然の諸力の一部しか所有しないという意味に取っている。哲學書も詩も、読者によって諸点で解釋が分岐する。その分岐の構造が「読書」だと思う。

☆ それを図示すればきっと、フラクタル的(自然界にあまねく存在する自己相似的繰り返し構造)になるはずだ。フィヒテの主張するように、読者たちの”自己”が内なる思考する自然であるとすれば!

つまり、自分に「被制限性」がなく(完璧に自由であって)、万能の神のような存在であったとすれば、外物の認識が不可能である。自他の區別が不可能だから。そして、逆説的なことには、この不自由こそが、人間に”自己を抜け出る”ことへの契機・渇望(=自由の人間的な意義)を与えている。

☆ 「夏」http://d.hatena.ne.jp/longtonelongtone/20150805/1438769246 … 短い詩を書きました。ムーサの助力があったとしか思えません。

同様にして私と同類の思考的存在者の概念が私に生ずる。・・・つまり自然は私において自己自身の全体を意識するのである。

しかしそれはただ、自然が私の個体的意識からはじまり、根拠律に従った説明によってこれから普遍的存在の意識へと前進していくというふうにして、すなわち私の人格を成り立たしめているこのような形態、このような運動、このような思考がその下でのみ可能となった諸制約を自然が思考するというふうにして、達せられるのである。根拠律は自然そのものである特殊から、この自然の外に存する普遍へといたる移行点である。両者の認識の區別を成す特徴は、前者はー直接的直観であり、後者はー推論であるということである。

☆ 『二十一世紀の高野悦子  ー劇団新生「読書劇 二十歳の原点」に寄せてhttp://d.hatena.ne.jp/longtonelongtone/20130720/1374300256 … 二年前に書いた詩。少しだけ書き加えました。最終行に未完成な感じが残るか。また見直したいと思います。

☆ こうして見ると、自分の詩には未完成な感じのものが多い。時間を作って真剣に推敲することが必要かも知れない。(ところで)詩集を出すためには、少しずつでも、お金を貯める努力が必要です。おそらくそこが一番努力が足りないところ(笑)。

それぞれの個体において自然は自己自身を或る特殊な観点から見る。私は私を私と呼び、汝を汝と呼ぶ。汝は汝をを私と呼び、私を汝と呼ぶ。汝が私にとって私の外にいるように、私は汝にとって汝の外にいる。私は私の外に私を先ず最初に限界づけるものを把握する。

汝も汝を最初に限界づけるものを把握する。この点から出発して、われわれはこの点に最も近い諸項を経て進んでいく。ーしかしわれわれは、恐らくここかしこで交叉するが、同一の方向へはどこへも相並んで延びていない甚だ異なる系列を既述することになる。

ーあらゆる可能的個体が、従ってまた意識のあらゆる可能的観点が、現実化する。この一括されたあらゆる個体の意識は宇宙の完全な自己意識を形成する。これ以外には宇宙の自己意識は存在しない。なんとなればただ個体においてのみ完全な限定と現実性があるからである。

「この一括されたあらゆる個体の意識は宇宙の完全な自己意識を形成する。これ以外には宇宙の自己意識は存在しない。なんとなればただ個体においてのみ完全な限定と現実性があるからである。」 
 フィヒテ・量義治訳「人間の使命」第一巻「懐疑」第一章「自然の体系」

☆ 「ひとりひとりの腹のなかに神様がいるような気がします」という、遭難したヨット「たか号」ただ一人の生き残り、佐野三治さんの言葉に呼応するフィヒテの言葉。

☆ ドイツ観念論最高! フィヒテ万歳!

☆ ぼくは生きている間に認められるかどうかわからない。断片的だと云われたりする。断片的手法にも両面がある。夢の”論理”としての断片的手法。説明を拒絶する夢の”強さ”としての断片的手法。それが成功しているかどうかは難しい。共感を得られない可能性も強い。#夢のフラグメントな論理による詩法

☆ 現代詩(自由詩!)とは云っても、「詩とはこんなもの」という固定観念、ドグマはある。象徴とかアレゴリーとかは今は使わないのが普通なのかも知れない。自分で自信を持っている作品が評価されないで、本来の自分からは、すこし逸脱したような気がしているものが評価されたりもするようです。

☆ ともかく書いていくしかありません。ふつうの文章におけるような「意味・論理」からは逸脱している(その意味での”夢の論理”)ので、綱渡りやアクロバットに近いものになることは避けられないかも知れません。墜死の可能性に怯えながら、しかし勇をふるって書く。少なくとも行分けした作文ではない!

☆ つまり、君(の肉体)自身が神の寓居である(パウロ)。

☆ → フィヒテはさらにその先(パウロの先)を行っていて、そこ(君の肉体)以外に神(=宇宙の自己意識)の居場所はないとさえ云っているようだ。少なくとも、この段階(第一章)では。すごいことになってしまいました!